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2007年12月02日

“光の魔術師”フェルメールとファブリティウスがやって来る!

昨日の朝日の朝刊トップを目にしたとき、えぇっ!と驚かれた方がたくさんいらしたのではないでしょうか。

画集等でお馴染みの【ワイングラスを持つ娘】がこちらに顔を向け、なんだかニッ!という感じで悪戯っぽく微笑みかけているではありませんか^^

そう2008年8月2日から開催される《フェルメール展(仮称)》の告知記事でした。

主催が朝日ということもあり、さらに文化欄に《美術界に驚き フェルメール6点来日へ 光の魔術師の贈り物》も掲載されていました。

上記の記事にもありますが、現存する30数作品しかないのうち6作品もが一度に鑑賞できるのです!これはある意味“事件”という気すらします。

ここで、《エッシェンシャル・フェルメール》より、この6作品をさらっておくと ー

1.【ディアナとニンフたち】[98.5×105 cm](1653〜56)

2.【マルタとマリアの家のキリスト】[160×142 cm](1654〜56)

3.【小路】[53.5×43.5 cm](1657〜61)

4.【ワイングラスを持つ娘】[78×67 cm](1659〜60)

5.【リュートを調弦する女】[51.4×45.7 cm](1662〜64)

6.【絵画芸術】[120×100 cm](1662〜68)

ぼくは相変わらずの入門レベルですが、これまでこのブログで【小路】に関して《スピノザとフェルメール》、【絵画芸術】について《世界の舞台(その4)》で触れたことがあります。

また、同時代のファブリティウスの作品も出品されます。

ブルース美術館(アメリカ)館長 ピーター・サットン≪展覧会によせて≫(pdfファイル)より ー
レンブラントの才能ある弟子カレル・ファブリティウスは、1647 年にデルフトに居を移し、すぐに遠近法の達人として名声を確立させました。彼が描いた小品《デルフトの眺望》は、ファブリティウスが遠近法に通じていたことを示す現存する唯一の作品であり、本展覧会の見所のひとつです。

ファブリティウスによる作品は希少な作品の中でも最も希少な作品であり、現存する作品は12 点(*1)しかありません。その中で、最も有名な彼の自画像を含む4 点(*2)の作品が今回の展覧会に出品されます。

*1:しかしマウリッツハイス美術館長デュパルクおよびヒルタイ博士は8 点としている
*2: *1 で述べた8 点のうちの4 点

ファブリティウスについては、《カレル・ファブリティウス(Carel Fabritius 1622-54)》で触れたことがあります。

まだちょっと先のことですが、とっても楽しみですね!

 
 
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2007年01月26日

朝鮮・日本・オランダ ― 『Titia ティツィア』(その2)

本をのろのろと読むのも時としていい場合があるようです^^
長崎幕府の極めて厳しい取り締まりにも関わらず、オランダ人たちのほとんどは日本の高価な工芸品を収集し、日本人検閲官の目を掠めて密輸出していた、と言われています。両者の間に談合があったことは疑いを容れません。なぜなら日本に入国、あるいは日本から出国する者は全員、入念なボディチェックを受けるわけですし、さらに言えば日本側はオランダ人が日本語を学ぶのを禁止していたため、パーターや私的な取り引きをしようにも、それに足る言葉を使える筈がありませんから、何らかの共謀なしにこうした密貿易が成り立つのは信じがたいことです。とくに、伊万里や有田の陶器は、ヨーロッパでは極めて高い需要がありましたから。
『ティツィア』(p.89〜90)

以前にも触れた『日韓共通歴史教材 朝鮮通信使』の次の箇所が思い出されました。
日本へ連れて来られた一人の陶工によって、日本で初めて磁器がつくられるようになりました。彼の名前は李参平(イ・サムビョン 1579〜1655)といいました。

文禄の役に参戦した肥前(佐賀県)の大名鍋島直茂は1596年、忠清道金江(チュンチョンドクムガン)の陶工李参平とその一族を捕虜として連れ帰りました。そして金ヶ江三兵衛という名を与え、領内での焼き物生産に従事させました。

李参平は鉱山匠の才能もあったので、領内で磁器の原料となる陶石(珪素を含んだ石)を探し歩き、1616年にやっと、有田川上流の泉山で陶石を発見しました。それまで陶器生産が行われていた有田の天狗谷に大きなのぼり窯を作り、磁器の生産を開始しました。日本国内で初めての磁器生産ですから、藩主は技術が他藩に漏れないよう、また、陶工が他藩に連れ去られないよう厳重に取り締まり、まったく外部と遮断した中で、独占的に生産を行わせました。

鍋島藩が独占的に売り出す磁器の皿や茶碗、小皿は、国内だけでなく、オランダ商人の手で、東南アジアを中心に海外でも大量に販売され、鍋島藩は大きな利益を得ました。特に、明滅亡の混乱で中国の磁器生産の中心地である景徳鎮での生産が減少したので、オランダ商人たちは有田で作られた磁器を、中国産に変わるものとして、ヨーロッパで大々的に売り出しました。この時、製品が伊万里の港から積み出されたので、「伊万里焼」という名がつきました。

その後、有田では、有田陶業の氏神をまつる陶山神社に、李参平の功績を杯えて「陶祖李参平碑」を建立しました。また、毎年5月に行われる「有田陶器市」期間中の5月4日を「陶祖祭」に定め、李参平の功績をしのんでいます。

関連箇所は、李 進煕『江戸時代の朝鮮通信使』にもあります。
磁器をつくるには、白磁鉱という特殊な原料を見つけ出さねばならず、また焼きあげる技術も陶器よりはるかにむずかしい。茶の湯のさかんだった室町時代に入っても、日本ではそれを焼くことができなかった。

そこへ磁器ができたからたいへんである。鍋島藩はさっそくそれに目をつけ、藩内に散在していた朝鮮人陶工を有田に集める。宗伝夫人(百婆仙)のひきいる数百人の陶工も黒牟田から有田稗古場に移され、平戸にいた陶工たちは有田黒牟田山や山溝山に移された。

こうして有田には十年足らずのうちに四十にのぼる磁器窯が築かれ、朝鮮風の磁器(初期伊万里焼)が大量に生産されだした。そしてまもなく、有田は日本の磁器づくりのメッカとなり、日本各地はもちろん遠くヨーロッパにまでその名が知られるようになる。

磁器によって莫大な収入があがる鍋島藩は「秘法」が他藩にもれることをおそれ、日本人の有田への出入りを厳重にとりしまる。磁器の販売を三里も離れた伊万里港に限定するのもそのためであって、スパイとわかればただちに打ち首である。しかしそれはまったく無駄な努力だった。一六六一年にひらかれる九谷焼や一八〇〇年の会津焼、一八〇七年の瀬戸焼、その後の京都の清水焼は、技術がすべて有田から盗まれてはじめられたものである。

さらに、《陶磁器 酒仙洞》さんのサイトによると ―
ところで、いかに良質の磁器を作ってもその需要が無ければ発展はあり得ません。有田は距離にして2里(8km)ほどのところに伊万里港を持っていて、そこから日本全国に出荷できる恵まれた「地の利」にあったのです。古い有田焼が「伊万里」と呼ばれるのはそのような訳があります。

そして有田が世界的な磁器の産地として急激に発展したもう1つの大きな要因は、江戸時代鎖国政策の日本が世界に向けて窓を開けていた隣の長崎の出島が近かったことです。

オランダ東インド会社(VOC)の帆船で有田の焼物が初めてヨーロッパへ輸出されたのは1659年のことで、それからおよそ100年間出島からの輸出は続き、有田は世界でも有数の磁器の産地になりました。

ここまで来ると、“マイセン”を思い出さずにはいられませんね。もう一昨年のことになりますが、《ドレスデン国立美術館展》!

ヨハネス・フェルメール《窓辺で手紙を読む若い女》とともに、すばらしいマイセン磁器と有田焼が並列展示されていました。

朝鮮・日本・オランダ…そしてヨーロッパへとつながる歴史の大きな流れを感じます。
 
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2007年01月21日

“日本へ旅した最初の西洋婦人” ― 【Titia ティツィア】(その1)

昨年末、新聞にも掲載された記事《出島商館長の妻を映画化》が目にとまりました。
江戸時代の長崎・出島オランダ商館長の妻で、日本を訪れた初の西洋女性ともいわれるティツィアの生涯をテーマに、本国オランダで記録映画の制作が進められている。

子孫の元外交官ルネ・ベルスマさん=ベルギー在住=らが企画し、来年の春には長崎ロケも行う。秋に完成予定で、日本語版や英語版も作るという。

紹介された本を図書館に予約しておいたところ、先日手にすることができました。

ルネ ベルスマ, Ren´e P. Bersma, 松江 万里子
ティツィア―日本へ旅した最初の西洋婦人


ティツィアが出島を訪れるのは1817年のことであり、カテゴリー【17世紀/オランダ】とは時代が離れていると思っていたのですが、実は大いに関係があったのでした。

17世紀におけるオランダと日本の関係については、多くの方がご存知かと思いますが、上記の本にも簡潔にして要を得た説明が書かれていたので、少し長くなりますが引用します。
ポルトガルと同様、海洋民族であり貿易民族であるオランダは、スペインと何度も戦争の直前までいったその隣国ポルトガルとは親密な関係を通じ、ヨーロッパに於ける香辛料貿易の一端を担っていました。…

しかし1580年に状況は変化します。この年スペインがポルトガルを征服したため、オランダ人はポルトガルの港に出入りできなくなってしまったのです。1588年には状況がさらに悪化し、スペインはオランダとイギリスをそれぞれ懲罰するために、巨大な艦隊を派遣しました。この一年前、カトリックであるスコットランドのメアリ女王が処刑された事実と、イギリスでの反カトリック運動に対して、フィリップ二世は激怒していたのです。

しかしながらこの"無敵艦隊"は結果的に打ち負かされ、オランダとイギリスが海洋国として力を持ち始める端緒となりました。そしてこのことは、オランダとイギリス両国はイベリア半島で香辛料を手に入れるのが不可能となり、結果として北部ヨーロッパのこの二ヶ国での香辛料の値段が急騰することになったのです。

1598年、オランダ人は香辛料の直接貿易を求め、五隻の小さな船団を、南アメリカ大陸経由で東洋(オリエント)へ向かわせることにしました。その中の一隻、リーフデ号だけが、1600年の四月に日本へ辿り着くことが出来たのでした。

既に日本にいたスペイン人とポルトガル人は、直ちに徳川家康に接近し、リーフデ号の乗員を処刑するよう求めました。家康は処刑する代わりにこの新参者達に謁見し、家康自身が抱いていたスペイン人とポルトガル人への不信感よりも、さらに深い疑念をオランダ人達が持っていたことに驚きました。

家康はオランダ人の滞在を許可し、1609年には、オランダ人に平戸での貿易活動を認めました。ここにはイギリス人も同様に貿易の拠点を置いたのですが、こちらは1623年に閉鎖されてしまいます。

関ヶ原の戦い以後、徳川家康はカトリック教会が国内政治に干渉してくるのを避けるため、日本国内の外国人を全て排除する方針を立てました。家康は日本を、完全に自立した国家にしようとしたのです。様々なカトリックへの弾圧が始まりました。長崎での二十六聖人殉教や、1638年の島原の乱などによって、まずスペイン人が、続いてポルトガル人が追放されました。

1637年に、家光の支配下にある幕府は、長崎の豪商に命じてポルトガル人の牢獄島を作らせました。これが、扇状に広がる人工の島、出島の起源です。ポルトガル人が去った後、幕府はオランダ人をここに移動するよう決定しました。その口実は、平戸に新しく建てられた石造りの倉庫に、西洋での日付が表示されており、これが幕府の逆鱗に触れた、というものでした。所謂「鎖国」の終わる1850年代まで、オランダ人は出島に隔離されていました。

その出島へ、オランダから「一万三千マイル(約二万キロ)の航海」をへてティツィアはやってくるのです。

ちょうど半分くらいまで読みすすみましたが、オランダ人の視点から眺められる出島と当時の日本の姿はなぜかとても新鮮です。 
 
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2006年07月25日

【アイヌ風俗絵巻】 ― ライデン国立民族学博物館

先日放送された、ETV特集「ある人間(アイヌ)からの問いかけ」(NHK教育テレビ)は、テレビならではの好企画でした。萱野茂さんの若かりし頃から晩年にいたるまでの個人史を、これまでに記録されたフィルムやテープでおっていくことで、アイヌ民族、そして日本人についても考えさせるものとなっていました。

そんな中、同番組内で、19世紀初頭のアイヌの人々の生活の実態が分るものとして【アイヌ風俗絵巻】がとりあげられていました。おっ!と思ったのが、その所蔵先が日本ではなく、オランダのライデン博物館所蔵であることでした。

なぜオランダなの?

ライデン博物館》をネットで検索し、所蔵品を見てみたところ、オランダ語表記のため間違っているかもしれませんが、アイヌ文化に関するものが166点も所蔵されていました。《こちら

ainu.jpg

この画像には次のような説明が添えられています。

Inventarisnummer : 1-1050
Objectnaam : makimono
Afmetingen : H 29.0 cm ; B 1610.0 cm
Datering : 1800-1829

19世紀初頭で時期的には一致し、しかも“巻物”とありますから、これが【アイヌ風俗絵巻】であるように思いますが、いかがでしょう?

19世紀初頭ということで、すぐに連想されるのはシーボルト(1796〜1866年)ですが…。

シーボルト日本植物コレクション》によると、「シーボルトが初来日し,滞在したのは江戸時代の文政6年(1823)から文政12年(1829)の7年間」であり、「シーボルト事件に発展した蝦夷の地図の収集」をおこない、またライデンとも深いつながりがあるようです。

シーボルトがこの絵巻物をオランダに持ち帰ったのか知らん?

いずれにしろアイヌとオランダとを結ぶ糸がありそうです。
 
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2006年07月13日

オランダのほんとうの女王 ― アニー・M・G・シュミット『ネコのミヌース』

フェルメールそしてスピノザをきっかけに、17世紀のオランダに興味を抱くようになって、まだほんのわずかですが現代のオランダにも関心をもつようになりました。

そんな小さなアンテナにひっかかったのがこの本 ―

アニー・M.G. シュミット, 西村 由美・訳
『ネコのミヌース』

オランダでいちばん読まれ、最も愛されたという作家アニー・M・G・シュミット(1911〜1995)の作品です。彼女は、「本物のオランダ女王を超える女王」とまで称えられたとか。

このおはなしは ―
もとネコだった女の子“ミヌース”とちょっと恥ずかしがり屋で気の弱い新聞記者“ティベ”。そしてたくさんのネコたちが、オランダの街を舞台に繰り広げる、楽しくちょっぴり風刺も利いた児童文学。

おまけに、こんな箇所も。野良猫ノラとミヌースとの会話 ―
「あたしのことなんか、いいさ。あんたのほうが、ずっとたいへんじゃないか。どうしたのさ!いったいどうして、そんなことになったんだい?」ノラは、黄色い目で心配そうにミヌースを見つめました。

「理由がわかればいいんだけど。何が一番いやか、わかる?いっそ、完全に人間になったらともかく、半分しか人間じゃないってことよ」

ちょびっと【ピノッキオ】!?

そしてこの本を原作としたDVD【ネコのミヌース】もでているのです!

最初のほうだけ観たのですが

オランダ語が新鮮!
美しすぎるオランダの街!
そして、たくさんのにゃんこ!


こちらもお薦めです^^

映画のオフィシャルサイトは《こちら
 
posted by sakae at 23:15 | Comment(3) | TrackBack(1) | 17世紀/オランダ

2006年06月15日

イタリアの光/オランダの光 ― アニメ【ゲド戦記】背景美術

【ゲド戦記】を協賛しているアサヒ飲料のサイトにおいて、“期間限定スペシャル企画”として《背景美術の世界》が連載されています。

その第1回に次のような記述があります。
宮崎駿の空の特徴が、ぬけるような青空ならば、本作「ゲド戦記」の空の特徴は、そこに浮かぶ雲。
あるときは清々しく、またあるときは不吉に、それはまるで、登場人物たちの心の有様が雲に映っているかのよう。
その雲の微妙なニュアンスは、背景美術を"絵画"として描くことから生まれました。

ゲド戦記.jpg


まさに「絵画のような背景美術」ですが、ふとどこかで目にしたことのあるタッチだという印象を持ちました。

そう、もう一年近く前にとり上げた映画【オランダの光】に出てくる空と雲を連想したのでした。




《背景美術》の記述は次のように続きます。
吾朗監督と美術監督の武重洋二との試行錯誤のさなか、「ゲド戦記」の企画に反対していた宮崎駿監督が、スタッフとの雑談のなかで、「『ゲド戦記』にはクロード・ロランの世界観が似合う」と、つい口を滑らせてしまいます。
それを聞き逃さなかったスタッフは、すぐさまフランス古典主義絵画の巨匠クロード・ロラン(1600-1682)の画集を手に入れ、さらにはブリューゲル、ドイツロマン派といった、終末観の漂う中近世の西欧の絵を手がかりに、写実性に囚われないドラマティックで豊かな背景美術を作り出すことに成功したのです。
クロード・ロランの名前を聞くのは初めてでしたが、彼が17世紀人であることに興味を覚え、ぼくも“すぐさま”図書館に『クロード・ロラン』の画集を予約しました^^

1998年9月15日〜12月6日に国立西洋美術館で開催された『イタリアの光 ― クロード・ロランと理想風景』のカタログを借りることができました。

「開催に寄せて」の中で、国立西洋美術館主任研究官・幸福輝(こうふく・あきら)さんは、「クロード・ロランを中心としてこの展覧会が企画された」理由の一つとして次のように書かれています。

「従来、風景画といえば当然のように『写実主義』の立場からの議論がなされてきた」が、実はそれは「ごく限定的な意味においてしか通用しない」。

そのことを示すためには、「『写実主義』とは異なる伝統に属すクロード・ロランの作品が最も相応しい」と考えたというのです。

17世紀オランダ絵画についても述べられているので、少し長くなりますが抜粋します。
運河に浮かぶ船や森林の中を流れる渓流が描かれたヤン・ファン・ホイエンやロイスダールなど17世紀オランダ風景画を代表する画家たちの作品を見るならば、そこに描かれた風景が彼ら自身の周辺にあったオランダの光景そのものに違いないことを確信させる。

たしかに彼らの風景画は「写実主義」なのである。

ところが、同時代のオランダにはこれとはまったく異なる系譜に属す一群の画家たちもいた。

本展にも出品されているが、プーレンブルフ、ブレーンベルフ、そして、ヤン・ボトやアセレインなどのイタリア的風景画を描いた画家たちである。

彼らの多くはイタリアに長く滞在し、その様式は「写実主義」の風景画とは著しく異なっている。彼らの作品においては、しばしば神話的人物や古代的廃墟という「写実主義」とはいえないモティーフが描かれ、また、概して、その画面は丁寧に仕上げられ、筆あとは見えない。

これは、農村風景や運河の光景を素早い筆さばきで描写した、いわゆるファン・ホイエンらの手になるオランダの「写実主義」とは明らかに異なるものである。

とすれば、17世紀のオランダにはふたつの異なる風景画の様式が共存していたことになる。
幸福さんは、この「17世紀オランダ風景画におけるふたつの伝統の共存」に注目されています。
プーレンブルフやボトなどのいわゆる「オランダのイタリア的風景画」は、一般に「理想風景」の系譜に属するものと考えられている。

「理想風景」の明確な定義があるわけではないが、とりあえずは田園詩の伝統を背景に、古代的理想に彩られた風景表現の流れと規定することができよう。

1600年頃の北イタリアに端を発するこの風景画の伝統は、17世紀のローマで活動したひとりのフランス人の画家によって完成に導かれた。

すなわち、クロード・ロランである。
けれども「写実主義」と「理想風景」は截然と切り離すことはできないそうです。
クロード・ロランはフランス人であるが、ローマで活動し、おそらく、オランダなどアルプスの彼方からやってきた北方画家たちとの交流の中から独自の様式を確立していった。

古代的静謐と悲劇的感情に充たされたクロードの代表作はしばしば「理想風景」の典型とされ、それは「写実的」な北方風景画とは対照的なものと考えられてきた。

しかし、クロードの重要な側面の一つに「北方的資質」があったことは紛れもない事実であり、また、その資質があったからこそ、彼の風景画はイタリアやフランスを越えて広く北方の国々にも受け入れられたのであろう。

とすれば、「理想風景」の代表者であるクロード・ロランの風景画の基礎には「写実主義」があったということにもなるのだろうか。
このあたりの議論は専門的なのでぼくにはよくわかりませんが、「オランダの光」と「イタリアの光」がそこには交錯していたということでしょうか。

アニメ【ゲド戦記】の背景にも要注目ですね!

*


国立西洋美術館》サイトのトップ画像はクロード・ロランの『踊るサテュロスとニンフのいる風景』です!
 
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2006年02月23日

カレル・ファブリティウス(Carel Fabritius 1622-54)

fabritus3.jpgクリックすると拡大されます

ファブリティウスの代表作の一つである、この【The goldfinch(ゴシキヒワ)】は、なんと!あのフェルメールの【真珠の耳飾の少女】が展示されているマウリッツハイス美術館に、それも同じ部屋に飾られているようです。

マウリッツハイス美術館のサイトにこの絵の説明《Carel Fabritius - The goldfinch》があったので、意訳してみました。(例によって正確さは保証しかねます^^;)

1654年にファブリティウスは、このゴシキヒワ― 頭部が朱く、黒い翼に明るい黄が塗られていることからそれとわかります ―を描きました。こうした鳥は長いこと家庭用ペットとして人気がありました。この鳥もまた、鎖でつながれて飼われていました。

ゴシキヒワはしばしばいたずらをすると言い伝えられていました。コップに入った飲み水を吸うために、指ぬきサイズの杯をその中に沈めるなんてことをするのです。

オランダ語の動詞“putten”は、井戸から水を汲み上げるという意味ですが、この鳥に“puttertje”というあだ名がつけられています。

この絵はファブリティウスが描いたと知られる約15の作品の一つです。

ファブリティウスは若くして悲劇的な死をとげました。デルフトの街の多くを破壊した火薬庫の爆発でなくなるのですが、その少し前1654年に彼はこの絵を描きました。


この小さな絵画(33.5 × 22.8 cm)はおそらく「トロンプ・ルイユ(だまし絵)」として構想されました。

下方の半円形の止まり木(の描かれ方)からも明らかなように、この絵は壁の高い位置にかけられました。下から見られることにより、そのだまし絵効果を高めています。

少し離れてみると、本物の鳥がそこに止まっているかのように、うっかりするとだまされてしまうのです。


【トロンプ・ルイユ(だまし絵)】とは、「実物そっくりに描き、目の前に実在するかのような錯覚を与える絵画」ですが、その手法はファブリティウスのこの作品から始まったということでしょうか。現在では、この言葉はもっと幅広く視覚トリック、たとえばエッシャー(Maurits Cornelis Escher 1898-1972)の作品に対しても使われています。(エッシャーもオランダ人ですね!)

今回ファブリティウスについてネットでいろいろ調べて、フェルメールと非常に関係の深い画家であることを知りました。(ぼくはフェルメールも入門レベルです^^)

ファブリティウスは、1640年代のはじめレンブラント(1606-1669)の工房で働き、1650年ごろデルフトに移り住みました。レンブラントの弟子の中で、唯一独自の画法を創り上げた画家だそうです。

それはこの【ゴシキヒワ】を観てもあきらかです。レンブラントの描く背景の多くは重く暗い感じがするのに対して、この作品は明るく繊細な光に照らされている気がします。(実物は観てませんけど^^;)

このあたりがフェルメールの作品ともつながるのでしょうか。

レンブラントの技法を自家薬籠中の物としたファブリティウスが、デルフトにやってきたことの意味はとても大きかったのだろうと思います。

けれども残念なことに、1654年のデルフトにおける火薬工場爆発に巻き込まれて、ファブリティウスは32歳の若さでこの世を去ってしまいます。

Takさんの《フェルメール年譜》には次のように書かれています。

印刷業で詩人のアルノルド・ボンは『デルフト年代記』の中に以下のような詩を残している。

≪かくて不幸にも不死鳥(画家ファブリツィウス)はほろびぬ

その栄光の頂きにて、彼はこの世を去りたり

されど幸いなるかな灰燼よりここにフェルメール生れ出で

そのあとはをば見事ひきつぎたり≫


そのフェルメールが亡くなった時の遺品の中に、ファブリティウスの絵画が2点含まれていたそうです。

それが何であるのかはよくわかっていないようですが、もしかすると…

この【ゴシキヒワ】だったり!


…なーんてことはないのかな?

self_por.jpgファブリティウス【自画像】(1654)
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2006年01月04日

ether(エーテル)<その3>

レミオロメンのアルバムタイトルから始まっていますが、そこから大きくそれています^^;

いよいよ、クリスチャン・ホイヘンス(1629〜1695)の登場です。

せっかくですから、彼の業績を手元にある見ていると時間を忘れてしまう以下の本から拾ってみます。(もっともぼくの持っているのはもう15年も前のものです…)



編集工学研究所

情報の歴史―象形文字から人工知能まで


1655
レンズの新研磨法を開発、土星の衛星及び輪を発見

1656
振子時計を製作

1660
振子調速航海用時計を製作

1669
衝突理論の論文

1678
光の波動説、ホイヘンスの原理を発表


最後の『光の波動説』がもっとも有名で、【エーテル】とも関連するのですが、世界で初めて【振子時計】を作ったのもホイヘンスなのですね。

【サイエンス・ミュージアム】には“huygens' clocks”が紹介されています。
In 1656, Christiaan Huygens built the world's first pendulum clock. It was far more reliable than any previous mechanical timepiece. For nearly 300 years, the most accurate clocks in the world all used pendulums, although many improvements were made to Huygens' design in that period.

ちなみに上記文中の“pendulum(振子)”はラテン語【pendulus(ぶらさがっている)】からきているようです。

ホイヘンスは、“光”とは“波”であって、水面に石を投げると広がる波紋のようなものだと考えました。だとするなら、波をが伝える「媒体」があるはずだと。

その媒体こそが【エーテル】の正体でした。これは、ニュートンによって「否定」され、アインシュタインによって「とどめの一撃」をあたえられますが、現在においても完全に「抹殺」されるには至っていないようです。

ホイヘンスは、【光の波動説】をオランダの運河を見ながら考えたといいます。もうおわかりのように、近くにはあのスピノザも住んでいました。

なんと!スピノザの書簡26(オルデンバーグ宛)にはホイヘンスとの交際があることが記されているそうです!!

【山梨大学付属図書館*大型コレクション スピノザ】にて、《2005年7月のスピノザコレクション展のために発行されたパンフレット》(PDF形式)で知りました。

書簡集持ってるのにまだ読んでませんでした^^;

上記年表にもあるように、ふたりは【レンズ】つながりでもあるのですね。

Huygens.jpegクリスチャン・ホイヘンス
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2006年01月03日

ether(エーテル)<その2>

お察しのとおり、アルバムタイトル【ether】から「19世紀以前の物理学で、空間に充満していると仮想されていた物質」としての【エーテル】を連想しています。

オランダの物理学者・天文学者ホイヘンス(1629〜1695)の考えた「エーテル」についてみる前に、そもそもそうした「仮想の物質」を想定しなければならなかったのはなぜなのでしょう?

それは当時の“光”の解明と大きなつながりがあったようです。このことに関して以前にも触れた金子 務『アインシュタイン劇場』にわくわくするような記述があります。

今回はそれをご紹介させていただきます。

“光”とは何かという問題は古来から人類にとって最大の謎でした。「光は天上の聖なる一者の流出であり、地上では闇を照らす明かりであり、その光と闇が合わさって様々な色を生むものとも考えられた」(p.64)というのは大いに頷けるところです。

“光”は「神の無限性を象徴」するがゆえに、その速度も「無限の速さ」だと長く考えられてきました。

それが「有限」だということを実証して見せたのは、若きデンマークの天文学者オーレ・レーマー(1644〜1710)でした。

roemer.jpg

レーマーの画期的な発見は、新設間もないパリ天文台で1676年になされたものである。その推論の根拠は木星衛星の食の観測に置かれていた。

木星に四衛星があることは、ガリレオによって1610年に発見されていた。これは地球の月以外にも月が別の惑星にあることを告げるもので、西欧社会に大きな衝撃を与え、社会的な一大事件になったものである。(p.70)

(中略)

レーマーは論文を一本しか刊行していないが、その1676年12月7日付けパリ科学アカデミー機関誌『ジュルナル・デ・サヴァン』に寄せたたった一頁半の論文「光の運動の証拠」が、科学史上この若者に不動の地位を与えることになったのである。

木星は太陽系の中でももっとも大きい惑星である。その周りを回る4衛星は、したがって地球から見ると、木星の裏側に入って見えなくなる。いわゆる「食」の現象を起こすのである。

まずガリレオによってその食の周期が見積もられ、その後、各地の天文学者たちの観測が積み重なって、正確な星時計になることも明らかになった。

航海者たちも、天体暦と併せて、出発地点との時間差をこの星時計で知ることによって、出発点との経度差を計算できたのである。

しかし精密な観測過程から困った問題が生じた。それはその食の周期が厳密には一定ではなく、木星が地球に接近しているときの食は早く始まり、離れているときの食は遅れることがわかったのである。

パリ天文台長のイタリア人で観測天文学の最高権威であったドメニコ・カッシーニも、地球と太陽との距離がこの現象に関係すると考えていたが、光の瞬間伝播説にたっていたので解釈がつかなかったのである。

レーマーは木星のいちばん内側の衛星イオについて観測した。それはまるで正確な木星時計として42.5時間で一周し、その周期で食が見られるのだが、精細な観測の結果、地球に木星が最接近するときは食が11分早く始まり、半年後、最離遠のときは11分遅れになることを確かめた。この二つの観測値のズレは22分である。

レーマーは、光速度が有限であるとするならば、この22分という値は木星からの光が地球の公転軌道を直径分だけ横切るのに要する時間になっているはず、と考えたのである。

しかしレーマーの関心は光速度が無限ではないことを示せば十分であったのである。その22分を使って地球の軌道半径を割ってやれば、光速度が計算できるのだから、それを求めて当然のはずだが、レーマーはこの最後の詰めを欠いたのである。

レーマーの大発見(カッシーニは認めなかったが)の一、二年後、レーマーに賛辞を込めてそれを実行したのは、オランダ人でパリ科学アカデミーの中心人物、クリスチャン・ホイヘンスであった。

当時知られていた地球軌道の大きさは2億8300万キロメートルであった。それを22分の秒数で割ってやればよい。すなわち、光の速さは秒速21万4000キロメートルになった。

この値は、もちろん現在の値といささか異なる。当時の地球軌道半径の見積もりが小さすぎたのである。そこでもしも今日知られている大きさを使えば、秒速30万キロメートルというよく知られる値が得られるのである。
(p.72〜73)


引用文中の「光の瞬間伝播説」というのは、アリストテレス(前384〜前322)が唱えた「空気の場所的運動である音と異なって、光の性質は瞬間に生じ無限速度で伝わる」という説であり、17世紀においても多くの学者たちもまたそう考えていました。

”光”の速度が無限ではなく有限だという実証は、当時において「神に挑む大胆な試み」にほかならず、「画期的な事件」だったことに思いを馳せるとき、17世紀がまた新たな輝きを放つように感じます。
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2006年01月02日

ether(エーテル)<その1>

ご紹介いただいたレミオロメンのether[エーテル]を、早速聴いてみました。



レミオロメンのこの2ndアルバムは、聴きこむほどに耳から離れなくなる楽曲ばかり!

彼らの力量とこれからの可能性を感じさせてくれる、まさに必聴の1枚だと思いました。

そしてもう一つ大いに気になるのが、このアルバムタイトル【ether(エーテル)】です。

手元の辞書やWikipediaを調べてみると…

エーテル【オランダ ether】

1.アリストテレスが四元素説を拡張して提唱した、天体を構成する「第五元素」。ギリシア語で「上層の空気」を意味する。

2.19世紀以前の物理学で、空間に充満していると仮想されていた物質。

3.化合物の区分。R-O-R'で表される有機化合物。

現在ふつうエーテルというと3の“ジエチルエーテル”を連想すると思いますが、アルバム名の由来はこれではないでしょう。すると1か2ということになります。

ためしに英和辞典で調べると

1.〔化〕エーテル《溶剤・麻酔剤》

2.《詩》〈雲の上の澄んだ〉天空

3.〔物〕エーテル《光・熱・電磁気などを伝える媒質と考えられた仮想の物質》

4.《略式》ラジオ


《詩》という連想でいくと、「天空」が一番妥当かもしれません。

しかし!すでにお気づきのことと思いますが、“ether”という英語が【オランダ語】から来たものであることに、ぼくとしてはこだわるというか連想の翼は大きく羽ばたくのでした!

(つづく)
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2005年10月17日

世界の舞台(その5)

古地図の美しさは、それが版画によるところにもあるのかもしれません。

三田にある慶応義塾図書館で、2002年に「第194回 西洋の古地図展」が開かれたようで、その展示内容を説明したページによると、

グーテンベルク以降、文字を主体としたものは容易に作れるようになった。一方、絵のコピーは版画によって作られ、1500年代初頭にはデューラーによって木版画が確立し、そして詳細に描ける銅版画はレンブラントなどへ引き継がれ、石版画へと多様化していった。

地図のコピーも版画によってもたらされた。時代の古いミュンスターやオルテリウスなどの地図は木版画で描かれており、17世紀にはオランダの地図製作者であるブラウの地図は細部まで描ける銅版を用いている。

として、オルテリウス「世界図」(『世界の舞台』アントワープ 1600年頃)
Ortelius, Abraham. “Typus Orbis Terraum”, Theatrum Orbis Terratum. Antwarp : Plantin, c1600
の画像を見ることができます。

そしてこの「“Orbis Terrae Theatro(世界劇場)”という言葉を用いた人物」がキケロであるため、なんと彼の詩が地図の下部に書かれているのです。

(その1)で触れた「神戸市立博物館:名品撰」の『世界の舞台』(1570)の下部にも“CICERO”の名前が記されているではありませんか。気づきませんでした〜。…もっとも今の力ではいったい何が書いてあるのかは分かりませんが。ラテン語だってことは分かります^^v

慶応の『世界の舞台』は第3版だそうで、

「世界図」における第1版と第3版の大きな違いは、第3版には地図の四隅にセネカとキケロの詩が載っていることである。

セネカの詩!なんて書いてあるのかこちらも気になりますねぇ。

古地図の美しさを堪能できるサイトがこちら↓ブラウの『グランド・アトラス』。

Le Grand Atlas by Johan Blaeu, French Edition 12 Volumes

“世界の舞台”(Theatrum Orbis Terrarum)という言葉からすぐに連想されるのは、フランセス・イエイツの『世界劇場』(Theatre of the World)です。“orbis terrarum”は、“world (circle of land)” 、“theatrum” が“theatre”だと辞書には載っています。“theatre”は「舞台;劇場」だから、共通するものがあると思っていました。するとこの本の訳者・藤田実さんの解説が目に留まりました。

もともと「世界劇場」はラテン語の Theatrum mundi からでた言葉であるが、ラテン語の mundi も英語の world も「世界」と「宇宙」の双方の意味をになうものであるから、本質的には「世界劇場」と「宇宙劇場」といってよいわけである。この「世界(宇宙)劇場」(テアトル・ムンディ)というのはヨーロッパに古くから存在した観念で、…(後略)

シェークスビア(1564-1616)もオルテリウス(1527〜1598年)らと同時代人ですね!

さて、この「世界劇場」にその冒頭で触れた本にめぐりあいました。

金子 務『アインシュタイン劇場』

そして、この本にはもうひとつ驚くべき“つながり”が秘められていたのです!!

詳細は次回取り上げますが、金子さんの真似をして「…別に取り上げているので、ジョン・ホィーラーの指摘を引用するだけで終わりとしたい」と思います。

われわれはアインシュタインの思考の哲学的先駆者を思い起こすとき、それほど難なく、わかっているつもりである。

…ライプニッツとニュートン、ヒュームとカント、ファラデイとヘルムホルツ、ヘルツとマックスウェル、キルホッフとマッハ、ボルツマンとプランク。

しかしこのだれよりもベネディクトゥス・デ・スピノザが、アインシュタインにとって若いときも後年になってもヒーローであり中心的創造者であった。

過去数世紀にわたって、スピノザほど力強く、自然の調和と美と、なかんずく究極の理解可能性を表明した人はいない。

その点で、われわれの世紀でいえばその崇拝者のアインシュタインの右に出るものはいない。…

!!!!!
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2005年10月11日

世界の舞台(その4)

フェルメールの作品に登場する地図の中でも、ひときわ目を引くのが『絵画芸術』に描かれたものです。

VermeerArtMap01.jpg


【Essential Vermeer】の地図に関する箇所を引用します。(例によって訳はご参考まで)

Various painters represented this same map in their compositions.

多くの画家たちが、彼らの作品の中でこれと同じ地図を描写しています。

However, the two lateral strips of town views we see in the Art of Painting are not present in their works.

けれども『絵画芸術』の中に見えるような、その両脇に細長く都市の景観が描かれた地図は、他に類がありません。

The city views and title script were each printed separately and then glued together as were the 9 separate sections which compose the body of the map.

各都市の景観およびその表題は、それぞれ別々に印刷されて、この地図の本体を構成する9つの区域のように貼り合わされます。

The city views may be linked to the notion that a successful painter bestows fame and glory on the cites where they were born, a concept greatly appreciated in Vermeer's time.

描かれる都市は、成功した画家が自分の生まれた都市へ名声と栄光を捧げるという思いと繋がっているのかもしれません。そうした考えは、フェルメールの生きた時代において高貴なこととされていました。

Vermeer's hometown, Delft, is not represented.

(けれども)フェルメールの故郷デルフトは、描かれていません。

It is curious that Vermeer, who was at the heigth of his powers, was mentioned only briefly in Beschryvinge der Stadt Delft (Description of the City of Delft) published in 1667 by Dirck van Bleyswick while other painters, now considered far less important, receive great praise.

1667年に Dirck van Bleyswick によって出版された『デルフト市の記述』において、今日では評価のずっと低い画家たちが賞讃されているにもかかわらず、当時絶頂期にあったフェルメールのことはほんの僅かしか触れられていません。

Ironically, Van Bleyswick also lamented that at times the fame due to great artists comes only after their death.

皮肉にも著者自ら、偉大な画家に当然払われるべき名声は、時としてその死後にしか訪れないと嘆いているのです。

Located precisely to the left of the standing Clio is a view of the Hof in The Hague (see image above), seat of the government of the 17 Provinces.

17州の政府が置かれたハーグ市のホーフの景観は、歴史の女神クリオの立つちょうど左手に描かれています。

絵画の中の画家のモデルとなっている女性が“歴史の女神クリオ”を象徴しているそうです。“17州”が出てきたのでもう一箇所。
The female figure on the top of the cartouche symbolizes the "unity and separation" of the Seventeen Northern and Southern Provinces.

カルトゥーシャ(装飾を施した枠縁)の上部に描かれた女性は、北部と南部の17州の「統一と独立」を象徴しています。

She is holding the coat of arms of the North and South in her left and right hands respectively.

彼女は、左右それぞれの手に北部と南部の紋章を握っています。

地図は同時に「歴史」をも記述しているのですね。

当時の地図は、「世界の地理情報を提供する」実用としての地図にとどまらず、「百科全書的に宇宙構造、天文・暦学、気候学などを取り上げた自然科学の入門書、概説書」(『図説 世界古地図コレクション』)でもありました。

そして古地図それ自体の持つ美しさもあります。フェルメールの住んだデルフトの地図(ブラウ/1652)がありました。

delft.jpg


デルフト(619×480)
デルフト(2434×1886)

<つづく>
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2005年10月10日

世界の舞台(その3)

今日のネットワークが世界の隅々まで張り巡ららされつつある社会では、もはや想像しにくくなっていることですが、世界が“未知”なるものとして強く意識された時代にあっては、【地図】とはまさに冒険の書の別名であったことでしょう。

それは君主にとっては領土の、商人にとっては財宝の、そして学者にとっては想像力の宝島のありかを示してくれる、大いなる神秘を孕むものだったはずです。

フェルメールの2枚の絵、『地理学者』と『天文学者』を見ているとそんなことを思いうかべます。

そしてよく知られているように、フェルメールの“部屋”には地図がよく掛けられています。数少ないフェルメールのどの絵にどんな地図が掛けられたのか知りたくなって、ネットで検索してみると、すばらしいサイトにめぐり会いました。ご存知の方も多いのかもしれませんが、【Essential Vermeer】(エッセンシャル・フェルメール)というサイトです。

《an interactive analysis》によって、画像にマウスを持っていくことで、個々の説明文が表示されます。まずは、【地理学者】のページをご覧ください。

インタラクティブ・アナリシスだけでなく、その絵に関して書かれた専門家の文章の抜粋も読むことができます。『地理学者』について Arthur K. Wheelock Jr. さんの書かれた文章が、自分の抱いていた印象とぴったりでした。(Wheelock!)

The decorative sea chart on the rear wall, showing "all the Sea coasts of Europe," is by Willem Janz.. Blaeu. Hendrick Hondius' terrestrial globe (lower right), which rests on the cabinet in its four-legged stand, is turned to reveal the Indian Ocean, the route taken by the Dutch to reach China and Japan.

後部の壁にかけられた装飾的な海図は、ウィレム・ブラウによる「ヨーロッパのすべての海岸」。そしてヘンドリック・ホンディウス製作の地球儀が4脚のスタンドの中に据えられています。

地球儀はインド洋をこちらに向けていますが、それはオランダ人が中国そして日本へと至るルートでした。

(中略)

The seventeenth century was a time of discovery, when the charting of new and unexplored worlds was a dream realized not only by adventurers and traders but also by geographers and astronomers.

17世紀は発見の時代でした。新しく未探検の世界を図示することは、冒険家や貿易商人にとってだけでなく、地理学者や天文学者にとっても実現したい夢でした。

From the rime of the first successful trading venture to the South Pacific in 1599 and the arrival of the good ship Liefde on the northeast coast of Kioesioe in April l600, the fruits of the ever-expanding mercantile empire brought Dutch citizens both wealth and marvelous rarities from distant lands.

1599年、南太平洋貿易の冒険的事業が成功し、1600年4月九州の北東海岸にリーフデ号が到着して以来、絶えざる商業帝国の成果のおかげで、オランダ市民は遠い国々から富と素晴らしい希少品を共に手にすることができました。

訳は間違っているかもしれないのでご参考までに。最後の“Kioesioe”というのは「九州」だと思うのですが…。

リーフデ号!これについてはいずれとりあげたいと思っています。

<つづく>

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2005年10月07日

世界の舞台(その2)

前回、【世界地図】が日本人にとっては、まさに「世界の発見」に他ならなかったという指摘を引用しましたが、それをもたらしたヨーロッパにとっても「日本の発見」は非常に意味深いことでした。

それまでのプトレマイオスの世界地図においては、「東西の範囲はアフリカ大陸西方のカナリア諸島を基準子午線とし、そこから地球半周分の範囲」が描かれていましたが、「そこでも、アジア大陸の東端にはたどりつか」なかったのです。つまり、日本は記載されていませんでした。

1543年のポルトガル人漂着は、日本の確認と黄金国ジパングという伝説の否定もさることながら、アジア大陸の東端の確認というプトレマイオス以来の難問が決着したことになり、世界地図作成史においては格別の意味を持つことなのである。
(三好唯義ほか『図説 世界古地図コレクション』より。以下同じ)

さて、17世紀になると「国力の象徴であり代名詞」であった【地図作り】は、アントウェルペン(アントワープ)から北のアムステルダムへと移ります。

ヘゲモニー国家オランダに「世界中の最新地理情報」も集中します。中でもオランダ東インド会社(VOC)の集める情報は、日本を含む東アジアと17世紀になって発見されたオーストラリア大陸の地図化に大きく貢献したということです。
VOCの公認地図作成者を代々務めたのがブラウ家で、アムステルダムではそのブラウ家はじめ多くの地図メーカーが軒を並べ、そこは一大情報発信地となった。

スペインやポルトガルでは戦略上極秘扱いだった地図が、オランダにおいてはこんなにもオープンなものとなったのは、時代の推移とともに力をつけていったオランダ商人のエネルギーと、17世紀のオランダならではの“寛容の精神"によるところもあったのではないかと思います。

さらに興味深いことに、

17世紀のアムステルダムで作成された大型世界地図は、地図だけではなく、主要な王侯や都市の図、各国人物図などを周囲に付属しており、さらに図中に「四季」や「四大元素」などを擬人化表現していたりと、百科事典的な要素を持っている。いわば宇宙全体の構造さえも示そうとする曼荼羅である。

ふりかえれば、プトレマイオスにしろ、メルカトルにしろ彼らは【地理学者】であると同時に【天文学者】でもありました。

VermeerGeogr.jpg


そう、フェルメールの2枚の絵が思い出されますね。
左が『地理学者』(1669)右が『天文学者』(1668)です。

<つづく>
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2005年10月06日

世界の舞台 (その1)

1543年、中国船に乗ったポルトガル人が種子島に漂着し鉄砲を日本に伝えたことは広く知られています。同時期スペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルがキリスト教を日本にもたらしたことも有名です。けれども「それらに勝るとも劣らない影響を与えたもの」がもう一つ伝来しました。

まさに、世界がひっくり返る事件であったはずで、大いなる驚きと疑問、それまでの世界像との葛藤、等々が当然のことながらあっただろう。

と、著者のお一人三好唯義さんは記されています。

『図説 世界古地図コレクション』


そう、それは【世界地図】なのでした。

ヨーロッパにおける地図学の歴史にとって16世紀後半という時代は、近代地図学が始まるという画期的な時代であった。それはプトレマイオスに象徴される古代地理学の影響からの脱却、コロンブスやマゼランなどの大航海によって得られた新しい地理情報の取り入れ、地図投影法の前進、そしてスペインやポルトガルでは極秘とされていた地図類が、北ヨーロッパのフランドル地方のメーカーによって大量に出版され、地理情報が普及するようになったからである。

非常に興味深い指摘がいくつも盛り込まれています。

クラウディオス・プトレマイオス(85-165)は古代ローマ時代のギリシャ人天文学者・地理学者だそうですが、彼の著書『地理学提要』が1500年もの間通用するものであったことにまず驚かされます。

2世紀のプトレマイオスの時代には、諸科学の発展により、古代地理学の最大の成果というべき大地球体説が成立しており、しかもその円周距離も論議されていた。

無論ルネサンスを迎えるまでは、中世キリスト教社会が横たわり、そこでは「大地は平盤であるという考えが支配したため、科学的な世界地図の発達がまったく停滞してしまった」という状況がありました。

プトレマイオスの地図帳に新図を加えたり、それを改訂するようなことではない、つまり古代地理学の影響から脱して、新たなる世界地図の作成に力を発揮したのが、16世紀後半に活躍するフランドルの地理学者メルカトルと、マップメーカーのオルテリウスである。

ジェラルド・メルカトル(1512-1594)は中学で学ぶ「メルカトル図法」で有名ですね。彼が1569年に完成させた世界地図は、「目的地への航路の角度が読みとりやすいという、船の時代が生んだ地図」でした。

オルテリウス(1527〜1598年)は、アントウェルペン(アントワープ)で「近代地図帳の嚆矢といわれる」『世界の舞台』を1570年に初めて刊行します。

この巻頭にある世界地図とプトレマイオスの世界地図とを比較するとき、ほぼ1世紀の間に獲得された地理的世界の大きさに驚く。大航海時代の成果を一目で知らしめるものとして、これ以上の効果あるものは他にないだろう。

神戸市立博物館:名品撰:『世界の舞台』

史料の上では、この『世界の舞台』を天正遣欧使節が持ち帰った記録があるそうです。そしてちょっとびっくりしたのは、その史料『デ・サンデ天正遣欧使節記』の翻訳者は、あの『ラテン広文典』の泉井久之助先生ではありませんか!

(つづく)
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2005年09月03日

デボラ・モガー『チューリップ熱』

《窓辺で手紙を読む若い女》についてもっと知りたいなと思っていたところ、図書館で借りたままになって開いていなかった1冊を今朝手に取りびっくりしました。


デボラ モガー・著/立石 光子・訳『チューリップ熱』


訳者あとがきで立石さんは書かれています。

本書『チューリップ熱』の舞台は、"黄金の世紀"と呼ばれた未曾有の景気に湧くこの新興国のオランダの、実質的な首都アムステルダムである。年配の富裕な商人であるコルネリス・サンツホールトに嫁いだ若い後妻ソフィアと、彼らの肖像画を描くために雇われた画家ヤン・ファン・ロースの運命的な出会いから物語は始まる。

年の離れた尊大な夫との生活に鬱屈していたソフィアにとって、若く、活力に富み、情熱的なヤンと恋に落ちるのは自然の成り行きであった。しかも、恋愛は障害が大きければ大きいほど燃えあがるもの。当時のオランダは進歩的で寛容な国とはいえ、キリスト教信仰が根本をなす社会では姦淫は許されない罪だった。ましてソフィアは敬虔なカトリック教徒。やがてソフィアとヤンは、地位と財力に恵まれたコルネリスから逃れるため、一家の女中であるマリアの望まぬ妊娠を利用して、大胆かつ無謀な計画を練ることになる…。

本書を読んでいると、作者はこの時代の代表的な画家フェルメールの《窓辺で手紙を読む女》をヒントに、この物語をつむいだのではないかと思えてくる。窓辺からさし込む光を受けて、豪奢な室内で恋文とおぼしき手紙を読んでいる若い女性は、ソフィアそのものではないだろうか。実際、この小説の陰の主役は十七世紀のオランダ絵画といってもさしつかえない。


こ、これは〜!!って感じです。原書が1999年、日本版初版が2001年、出版社はあのシュヴァリエ『真珠の耳飾りの少女』と同じ白水社です。おまけにフルカラーのオランダ絵画が挿画として13枚入っています。うちフェルメールの作品は、《女と召使》《手紙を書く女と召使》《窓辺で手紙を読む若い女》の3作品!

おまけに、この作品は【スピルバーグによる映画化決定】とかということで、早速調べてみるとなんと!

2005年12月31日全米公開予定/ソフィアをキーラ・ナイトリー、ヤンをジュード・ロウが演じるみたいです。日本公開は来年かなぁ。

またお楽しみが増えました!
おっとその前に、本読まなくっちゃ^^;
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2005年09月02日

ヨハネス・フェルメール《窓辺で手紙を読む若い女》

「ドレスデン国立美術館展」に8月も最後の日に行ってきました。ご覧になった方の多くが好印象を抱かれたと思いますが、ぼくはなんといっても生まれてはじめてフェルメールの絵を見ることができただけで、とっても幸せでした!

フェルメールについてたいした知識も持ち合わせていませんので、以下はあくまで素人の勝手な鑑賞記です。

* *

windowLetterLady.jpg

彼女の頭部は、キャンバスのちょうど中央にあって、手にした手紙に視線を落とすその表情からは、すぐには気持ちを読み取ることはできません。

開け放たれた大きな窓から差し込む陽射しは、ベッドの上に無造作に置かれた果物や彼女の衣服から晩秋の気配が感じられます。

若い女は、この家の住人でしょうか。それともあのフリートのように女中として住み込みで働いているのでしょうか。

大切な人からの手紙を受け取って、家事の合間を大急ぎで抜け出して、果物を持った大皿をベッドに投げ出して読んでいるかのようです。

彼女の抑えた息づかいまで感じることのできる静かな空間。手紙は、開かれた窓の向こうに広がるオランダの海をこえて、異国にいる男性から届けられたものかもしれません。

*

フェルメールの絵は、ぼくらをにわか現象学者にしてくれます。

ベッドの端に寄せられた毛織物の上掛けの驚くべき質感と重さが伝わります。かしいだ大皿からずれ落ちる果物は、ベッドを幾分窪ませてさえいないでしょうか。配置されたものたちの堅さや弾性。ニュートンが『プリンキピア』を発表するのはこれから30年近くあとですが、「重力」の正確な描写がここにはあります。

そしてガラスの窓。
ガラスに反射して映る、若い女の正面からの顔。
ガラスを透過して見える、朱色の柔らかなカーテン。
ガラスの落とす、薄い影。

背後の壁は高く、キャンバスの上部は下部とは対照的にがらんとして、光と影が主役です。

最上部には少し撓った細い横棒があり、厚手でごわごわした長いカーテンを支えています。陽光は、そのカーテンまで届き光の粒子を踊らせています。

* *

この絵のことがもっと知りたくなって、Tak さんのブログ等を拝見して、ぼくがてっきりベッドだと思っていたのがテーブルだと知ってちょっとびっくりしました。そういえば映画『真珠の首飾りの少女』でも、アトリエにあったのはテーブルでした。

でも、このカーテンといいテーブルクロスにしては重厚な毛織物といい、ベッドだって思っちゃいませんか?

いずれにしろ、”物語”をフェルメールの絵は想像させずにはおきません。そんな「力」を持っていることをあらためて思いました。
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2005年07月25日

オランダの光

Takさんのサイト【BLUE HEAVEN】で拝見してから、ドキュメンタリー映画『オランダの光』を機会があれば観たいと思っていました。

すると近くのレンタル屋さんでDVDとして展示されているではありませんか!

オランダの光

早速、鑑賞してみると、な、なんと出だしからスピノザの名が!

"Light deffuses in circles
光は円形状に拡散するが
and needs time for that."
そのためには時間を必要とする
― Christiaan Huygens (1690)

"When I think of Dutch Light,
"オランダの光"を考えるとき
I think of Spinoza polishing his lenses."
レンズを磨くスピノザを思いおこす
― Michel Denee (1996)

"Not the paint, but the quality of the natural light
絵具ではなく自然光の質が
is the most important material of the painter."
画家にとってはもっとも大切な材料だ
― Edy de Wilde (1984)


一番最初の Hyugens(ホイヘンス)は17世紀オランダの科学者で、「光の波動説」を唱えたことで有名なのだそうです。

スピノザにとってレンズを磨くことが生計のたしになっていたのかには諸説があるようですが、フェルメールの使ったカメラ・オブスクラと何らかのつながりを感じずにはいられません。

先のホイヘンスばかりでなく、同じ17世紀デルフトには顕微鏡を作り数々の生物学上の発見をしたレーウェンフックもいます。


いずれにしろ、『オランダの光』の中に繰り広げられるオランダの景色の美しいこと!低地で海に面しているからこそ、広々とした空とそこでさまざまに形を変えていく雲、あふれる光と濃淡のある翳、漂う空気、静かなたたずまいをみせる土地といったものが、実に静謐に淡々と映し出されていきます。

光に魅せられた人たちの多くが、17世紀オランダに生まれたというのもこの「オランダの光」がおおいに関係しているのかもしれません。

『オランダの光』セテラ・インターナショナル
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2005年07月20日

【ヘゲモニー(覇権)国家】オランダの誕生


加藤 祐三, 川北 稔『<世界の歴史25>アジアと欧米世界』(1998/中央公論社)
にとても分かりやすい記述がありました。以下はそれをもとに、編集したものです。

封建制度下での人口増加や商業の展開には限界があり、12・13世紀と拡大を続けた北西ヨーロッパの経済は、14世紀に入ると逆に急激な衰えをみせます。黒死病(ペスト)や戦災により生産は停滞し、領主と農民の取り分をめぐる闘争が激化します。この危機を完全に乗り切る方法は、「分け合うもとのパイ」を大きくする他ありません。その対策として「近代世界システム」が生まれ、急速に進展し現代にまで至る歴史潮流となりました。

世界システムの歴史においては、時に超大国「ヘゲモニー(覇権)国家」があらわれ、農業・工業だけでなく世界商業の覇権や世界金融をも握ります。しかしこのような国はこれまでの歴史上3つしかないそうです。その1番目が17世紀中ごろのオランダ(ネーデルラント)なのでした。(あとの2つは、19世紀中ごろのイギリス「パクス・ブリタニカ」とヴェトナム戦争前のアメリカ。)

15世紀末に成立した、ヨーロッパを中心とする世界システムは、16世紀を通じて拡大しますが、1620年代を境にしていっきょに下降に転じます。地理的にも、コロンブス以来の膨張が止り、かつアジア貿易は1650年代までに日本と中国がヨーロッパ人に対して門戸を閉ざすこととなり、発展性がなくなります。そのため当面ヨーロッパを中核とする近代世界システムは、「大西洋経済」の確立に賭けざるをえなくなりました。

この時代、オランダ人やイギリス人の間で、「母なる貿易」と呼ばれていたのは、北欧を含むバルト海域との貿易であり、世界をまたにかけた貿易を展開するにも船舶がすべての時代でした。オランダにはすぐれた造船技術があり、少人数で大量の積み荷を運搬できる新型「フライト船」を発明し、バルト海域の優位を確立します。

オランダが海上を支配していくにつれて、アムステルダムの海運業の保険料率も他国の追随を許さぬほど低くなり、それがさらに圧倒的に有利にはたらきます。フランスがせっかくカリブ海で生産した砂糖も、バルト海域に送るためにはオランダ人の手を借りざるをえませんでした。

世界システムの中心となったアムステルダムには、世界中の資金が流れ込み、世界的な金融機構が確立されていきます。こうしてオランダはヘゲモニー国家となっていきました。アムステルダムは、たちまち西ヨーロッパ最大の人口を誇る世界のメトロとなります。

ヘゲモニー国家では、その政策や背景となる考え方の点でも特徴的な側面があらわれます。他の中核諸国が重商主義的な保護政策をとることによって、自国の経済圏を維持しようとするのに対して、ヘゲモニー国家にとっては自由競争が圧倒的に有利になります。この自由主義は、経済活動の側面のみならず社会・政治・宗教など多方面に影響をあたえずにはおきません。結果としてオランダに亡命者や自由な文筆家、芸術家が集まってきます。

17世紀のアムステルダムは、のちのロンドンやニューヨークと同様に最先端の文化現象のみられる世界の文化センターとなります。世界のメトロは、同時に世界の吹き溜まりでもありました。世界システムのヘゲモニーを握ったオランダでは、救貧・福祉のレベルがあがり、「都市雑業」と呼ばれる使い走りのような仕事から洗濯・物売り・物ごいの類いといった雑多な職種によって、貧民もなんとか食いつなげたという環境もできあがったのです。



フランス出身の哲学者デカルトをはじめ、スピノザもフェルメールも17世紀のこの国でこそその世界を築くことができたのではないかと思います。


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2005年05月08日

真珠の耳飾りの少女(その5) 『日常礼讃』<承前>

17世紀のオランダをめぐって、引き続き…

これほど小さい国が豊かになるには、他の国に開かれていなければならない。ネーデルランドの商人たちは、世界の隅々まで行き来し、アジアで得た商品をフランス人に売り、あるいはその逆をする。こうして、彼らの富はすばやく増大してゆく。戦争によってむしばまれ、商業によって豊かになってゆくこの社会において、封建的・英雄的諸価値が、誰にでも理解できる、より平和的な価値を前に衰退してゆくのは驚くべきことではない。他者とやむを得ず頻繁に交際せざるを得ない状況から生じたもうひとつ別の精神的な代償は、寛容の習得、つまり諸国民、そしてさまざまな人間の間にある文化的差異の承認である。文化的に違っていても、同じ人類に属していることに変わりはない。オランダ人たちの寛大さは、彼らの利益と無関係ではない。それどころか、寛容は彼らの政治的・経済的目的に役立っている。しかもそれだけでなく、寛容は彼らの日常の振る舞いに影響を及ぼしている。 ( p.28 )

こうした精神風土にあって、さまざまな宗教が併存していたようです。それは小説『真珠の首飾りの少女』で描かれる背景ともなっていました。

ここで【宗教改革】についてのおさらい。『詳説世界史』(山川出版社)より引用。

ルネサンスは人間性の解放を求める運動であったが、教会そのものの権威や、カトリックの教義の根本を疑うことはなかった。これに反し、1517年ドイツからおこった宗教改革は、民衆の生活と日常的に結びつく教会のあり方を根本的に変えたという点で、ルネサンス以上に大きな社会的・政治的影響を及ぼした。
(…)
1517年、修道士で、ザクセン選帝侯の創立になるヴィッテンベルク大学の神学教授でもあったマルティン=ルターは、魂の救いは善行によらずキリストの福音への信仰のみによるという確信から、贖宥状(免罪符)の悪弊を攻撃する「九十五カ条の論題」を発表した。
(…)
フランスのヒューマニストで、ルターの説に共鳴し、『キリスト教綱要』を公刊したカルヴァンは、ジュネーブで独自の宗教改革を行った。(…)また彼は、魂が救われるか否かはあらかじめ神によって定められているという「予定説」を説き、これが職業労働を神の栄光をあらわす道と理解する考えと結びついて資本主義勃興期における中産市民の間に広く普及した。教会組織の上では、ルターが司教(監督)制度を維持したのに反し、カルヴァンはこれを廃止すると同時に、教会員のあいだから信仰のあつい者を長老に選んで牧師を補佐させる長老主義をとり入れた。
(…)
これら、ローマ教皇の権威を認めず、聖職者の特権を否定する(万人祭司主義)新宗派を総称してプロテスタンティズムという。ドイツからおこったルター派は、やがて北欧諸国にも広がったが、カルヴァン派は、さかんな宣教活動を通じてフランス・ネーデルラント・スコットランドなどにも広まり、その勢力はルター派をしのぐにいたった。


プロテスタントのなかでもカルヴァン派が、より'新興市民'の望むものに合致していたことが分ります。カルヴァン派は”蓄財”を肯定しています。オランダの「栄光」と宗教は密接なつながりがありそうです。

さらにオランダにおいてはカルヴァン派が支配的でしたが、カトリック教徒も多数いれば、「大規模なユダヤ人共同体」もあったというのです。「エラスムスに始まるユマニスムの伝統を信奉する人間は、数の上ではわずかだが、信仰の私的礼拝に対する寛容の原則(公共の場での礼拝は、もっぱらカルヴァン主義による)は広く認められ」るといった、まさに「宗教的寛容の避難所」となっていたことが、オランダ絵画の花を開かせる沃野となったのかもしれません。

<この項まだ続く>
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2005年05月07日

フェルメールつながりの番組

関連番組を教えていただきました!

なんと今夜9:00からのTBS《世界不思議発見》は「第915回 オランダ黄金時代の光 フェルメールの小さな窓を開いて」!( vita88 さん、情報ありがとうございます)

さらに9日(月)BSハイビジョン・15日(日)NHK総合の《NHKスペシャル新シルクロード》は「第5集 天山南路 ラピスラズリの輝き」!( nagihona さん、ありがとうございます)

どちらもとっても楽しみ!!

それにしてもつぎからつぎで、ちょっと不思議…。
posted by sakae at 15:12 | Comment(3) | TrackBack(0) | 17世紀/オランダ

2005年05月06日

真珠の耳飾りの少女(その4) 『日常礼讃』

前回「あとがき」に魅かれて取り上げたこの本は、フェルメールだけでなく副題にある「オランダ風俗画」というものの”見方”を教えてくれます。美術史をろくに知らないぼくのような人間にとっては、とてもためになりました。興味深い指摘をいくつか引用したいと思います。なお【 】内は、文意を分かりやすくするために、補ったものです。

【オランダ風俗画】以前も日常生活は描かれてはいたが、それだけで充分絵の構成原理になるとみなされていなかったのに対し、この【オランダ風俗画の】時代からは他の理由がなくても構わなくなったという点が異なっているのである。副次的なものが、本質的なものの地位を獲得した。従属していたものが自立したのである。ここには、宗教画 ― それ以前のある時代においては、あらゆる絵画がその枠内に収まっていた ― という規範から、風俗画というジャンルが次第に解放されていくという、より一般的な流れがみられる。 ( p.7 )

「日常生活」が画題になることはあたりまえすぎて、むしろ”宗教画”に対して特異な感覚を覚えるのはぼくだけではないと思います。しかるにオランダ風俗画以前の絵画は主として「もっと高級な目的のために」描かれていたのです。

絵画がどのような位置を占めるかは、描かれた主題の性質によって決まるのである。無機物、鉱物、植物の世界が最下層にあり、その次に動物が来て、頂上には人間がいる。彼方に君臨するのは神だ。したがって、もっとも高尚な絵画は宗教に関わるさまざまな場面を描いた絵画であり、その次に際立った有徳の士、或いはすぐれた英雄的人物の絵ということになるだろう。その下には、それほど傑出しているわけではない人物たちの肖像画、動物たちの絵、最後に風景画と静物画がくる。 ( p.8 〜 9 )

十七世紀オランダにおいて、はじめて、歴史やギリシャ神話、あるいは著名人物たちの英雄的生活ではなく、無名の人々の日常生活が、絵画の中心的テーマと構成原理になった。 (p.27 )

それではなぜ、「十七世紀のオランダ」にそうした驚くべき変化がおきたのか?論点はそちらに移っていきます。この本にも当時のオランダをめぐる歴史的流れは簡単に触れられていますが、西洋史をぼくはろくに勉強していなかったのでここでごく簡単に振り返っておくことにします。ご存知の方は飛ばしてください。

まずは【オランダの独立】、引用は『詳説世界史(山川出版社)』より。

商業の発達したネーデルラントには、カルヴァン派の新教徒が多かった。カール5世の退位後、この地がスペインのフェリペ2世の統治下におかれると、熱心なカトリック教徒であるフェリペはきびしい旧教化政策をとり、さらにこれまで大幅に認められてきた自治権を奪おうとしたため、諸州の激しい反乱をまねいた (1568年)。南部の10州(フランドル地方)はやがてスペインに屈服したが、北部7州は1579年ユトレヒト同盟を結んで、オラニエ(オレンジ)公ウィレム(ウィリアム)のもとに抗戦を続け、1581年、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の独立を宣言した。
(中略)
その後もスペインはオランダの奪回に努めたが、オランダは北欧での仲介貿易で富を蓄え、さらに東南アジアにまで貿易網を広げて(1602年、東インド会社設立)、いっそう国力を強め、1609年の休戦条約で事実上の独立を勝ち取った(オランダ独立戦争)。フランドルのアントワープにかわって、今やアムステルダムが国際金融の中心となり、17世紀前半には学芸もおおいに栄えて、オランダは全盛期を迎えた。

なるほど…。そういえば日本の江戸時代の鎖国(1639年)以後においてもオランダだけは別格でしたね。

(この項続く)
posted by sakae at 23:12 | Comment(2) | TrackBack(2) | 17世紀/オランダ

2005年04月29日

真珠の耳飾りの少女(その3) デルフト眺望

今夜の『世界美術館紀行 ― 青の輝き フェルメールの魔術 オランダ』を前に、フェルメール関連の本を何冊か図書館で借りました。パラパラと眺めている程度ですが、いちばんおもしろそうなのが↓です!



著者: ツヴェタン トドロフ, Tzvetan Todorov, 塚本 昌則

タイトル: 日常礼讃―フェルメールの時代のオランダ風俗画



『日常礼賛』と言うタイトルに魅かれて借りたのですが、ぐいぐい引き込まれます。本来なら、読んだ後にご紹介すべきなのですが、「訳者あとがき」に以下の記述を見つけたので急遽取り上げます。

ここで、プルーストの『失われた時を求めて』で、作家ベルゴットがフェルメールの《デルフト眺望》を見ながら倒れる有名なシーンが思い出される。ある批評家が、この作品には「黄色い小さな壁が実に見事に描かれていて、それだけをじっと眺めるとすばらしい中国の美術品のように自足した美を備えている」と書いてあるのを目にして、ベルゴットは展覧会に出かける。そして増大してゆくめまいをこらえながらその壁を見つめて、つぶやく。「こんなふうに書くべきだった。おれの最近の本はあまりにも無味乾燥すぎた。この小さな黄色い壁のように、絵具を何度も塗り重ねて、文章そのものに価値をあたえなければいけなかったんだ。」何かを描くために書くのではなく、文章そのものにまるで「中国の美術品」のような光沢をあたえること。しかし、同時にその「小さな黄色い壁」が、世界への限りない賛歌となっていること。プルーストはそれが絵に固有の出来事ではなく、「文章」においても実現可能なひとつの過程と捉えている。問題は、「表現」そのものにそれ自体に固有の質感をあたえることである。

トドロフが、フェルメールに見出しているのも、別のことではない。


おもしろい!おまけにプルーストつながり!!

家に、積ん読になっている『プルースト全集』チャレンジする必要ありかも?し、しかし時間が〜「失われ」ております^^;
posted by sakae at 15:06 | Comment(6) | TrackBack(2) | 17世紀/オランダ

2005年04月21日

真珠の耳飾りの少女(その2) フェルメールがやって来る!

フェルメールの『窓辺で手紙を読む若い女』が、来る6月28日〜9月19日まで上野の国立西洋美術館にて開催される「ドレスデン国立美術館展」のなかで展示されます。

展覧会構成と主な出品作品

また、来週4月29日(金)午後10:00〜10:25のNHK教育『世界美術館紀行「マウリッツハイス美術館」』ではなんと!「青の輝き フェルメールの魔術」と題して『真珠の耳飾の少女』のことがとりあげられるそうです!( nagihona さん、情報ありがとうございます)

とっても楽しみです♪
posted by sakae at 01:00 | Comment(11) | TrackBack(1) | 17世紀/オランダ

2005年04月20日

真珠の耳飾りの少女(その1) 17世紀オランダが舞台なのに

美術に造詣があるわけではないぼくでも、その名前はいつかどこかで耳にしたことのある17世紀を代表するオランダの画家フェルメール。そしてこれも見るのはおそらく初めてではない彼の代表的な作品「真珠の首飾りの少女(青いターバンの少女)」。

そのモデルの少女を主人公にした、シュバリエの小説『真珠の耳飾りの少女』を読みました。

おもしろいです!どのあたりが?そのあたりをゆっくり探っていけたらなと思います。映画化もされ、DVDもでていますがぼくは未見です。そちらも近いうちに是非観たいと思っています。

まだお読みでない方、お薦めです!!

著者: トレイシー シュヴァリエ, Tracy Chevalier, 木下 哲夫
タイトル: 真珠の耳飾りの少女



ちょこっと引用(上掲書7ページより)

'おじさん'(フェルメール)が女中を雇おうと少女(フリート)の家を訪れる場面。


わたしは野菜をいつも、パイを切り分けるように、種類毎に丸く並べることにしていた。その日は赤キャベツ、玉葱、長葱、人参、それから蕪の五つ切れ。包丁の刃で形を整え、人参の輪切りを真ん中に置いた。

(中略)

「白いのは別にしてあるね」蕪と玉葱を指して言った。

「それから、橙色と紫色も一緒にしていない。どうしてなんだろう」キャベツと人参を掌に乗せて、さいころのように転がす。

お母さんを見ると、小さくコクリとうなずいた。

「隣り合わせにすると、色が諍いを起こします」

そんな答が返ってくるとは思ってもみなかったらしく、おじさんは目を丸くした。


17世紀オランダのデルフトの街。遥か昔の、行ったこともない街、それもほんの狭い場所が舞台の作品ですが、少女の息づかいまでもが伝わります。

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posted by sakae at 01:00 | Comment(9) | TrackBack(0) | 17世紀/オランダ
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