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2007年08月28日

同文同種

朝日新聞で定期的に連載されている「歴史は生きている ― 東アジアの150年」を、毎回興味深く読んでいます。

昨日27日は、「第3章 日露戦争と朝鮮の植民地化 上」で、日本が日露戦争に勝利したことは、東アジアに何をもたらしたのかについて考察したものでした。

今回とりあげるのは、その中でも当時の日本とベトナムに関する箇所(取材・桜井泉)です。例によって、引用だけですが^^;
(日露戦争の)勝利に興奮したのは日本人だけではなかった。

のちにインド初代の首相となるネールは1930年代に獄中でこう書いている。

「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国ぐにに大きな影響をあたえた。わたしは少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したことがあったものだ」(大山聡訳『父が子に語る世界歴史』、みすず書房)

中国の革命家孫文(そん・ぶん)は、日本の勝利が、アジアのみならずエジプトやトルコ、アフガニスタンなどの独立運動を刺激したことを指摘している。欧米の大国に抑圧された有色人種に希望を与えたというのだ。アメリカの黒人知識人らも「黄色い人々」の活躍をたたえた。

私は、そんな話を聞いてある人物を思い出した。ベトナムでフランスからの独立運動を指導していたファン・ボイ・チャウ(1867〜1940)だ。

チャウは日露戦争の報を聞いた後、1905年はじめにひそかに出国し、春ごろ来日した。彼は数千キロも離れた日本に何を求めたのだろうか。ベトナムを訪ねた。



ハノイの社会科学院歴史研究所で長年、チャウを研究してきたチュオン・タウ教授(72)が、チャウの肖像画のかかる応接間で迎えてくれた。

「日本はいち早く明治維新により近代化を進め、立憲主義を取り入れ、大国ロシアに勝った。『同文同種』の日本の姿は、列強の侵略に苦しむ人たちの模範となり、多くのベトナム人が日本に引き寄せられたのです」。同文とは同じ漢字文化圏、同種とは黄色人種の意味である。

日本に善いたチャウは、横浜に亡命中だった中国の立憲思想家、梁啓超(りょう・けいちょう)を訪ねた。梁は清朝末期、国政改革に失敗し、日本に脱出した。チャウは、ベトナムで梁の著作を読み、奥付にあった住所を頼りに訪ねたのだった。儒者の家に生まれ、幼い頃から中国の古典に親しんできたチャウは、中国人や日本人と漢字で筆談することができた。

チャウの来日の目的は、フランスと戦うため、日本から武器や兵力などの援助を得ることだった。チャウは、梁の紹介で当時の有力な政治家、大隈重信や犬養毅らに会う。しかし大隈らは、軍事援助が日本とフランスの間の外交問題になるなどとして断り、まずは人材育成に力を入れるよう諭す。

チャウは、日本の有志から資金を得たり、留学先を紹介してもらったりして、ベトナムから若者を呼ぶ東遊運動を姶めた。留学生は一時、200人を数えたが、「安住の地」日本にいられる時間は、そう長くはなかった。

日露戦争に勝った日本は1907年6月、インドシナと朝鮮の支配を事実上、互いに認めた日仏協約を結ぶ。フランス政府が日本に求めたのは、ベトナム独立運動の取り締まりだった。「日本政府はフランス植民地政権と結託し、ベトナムの留学生、さらにはファン・ボイ・チャウに至るまでも追放した。東遊運動は粉砕された」。ハノイで買った高校の歴史教科書にはそう書いてあった。

チャウは1909年3月、4年間暮らした日本を追われた。東京の外務省外交史料館に、小村寿太郎外相にあてたチャウの直筆の手紙が残っている。チャウは、外相が「アジアの黄色人種を軽侮し、罪の有無を問わず駆逐している」とし、日本が欧米列強と手を結んだことを痛烈に批判した。薄い半紙に漢字で一字一字、きちょうめんに書かれた手紙を手に取ると、彼の激しい怒りが伝わってくる。

こんなところにベトナムが登場するとは思いませんでした。近現代史も、知らないことがたくさんあります。
 

2007年07月21日

‘アジアを背景とした韓流ドラマ、歓迎’

先日CSで、韓国ドラマ情報番組を観ていたら、ベトナムを舞台にした新ドラマの紹介がされていて、最近は韓国ではベトナムがよく取り上げられなと感じたのですが、こんな記事がありました。

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ドラマ【黄金の花嫁】のヒロイン、イ・ヨンア


アジアを背景とした韓流ドラマ、歓迎
韓国ドラマがアジアを抱えている。

韓流の中心舞台である中国、ベトナム、タイなどアジア地域を素材や背景にしたドラマが続いている。これは韓流を狙って放送会社とドラマ制作陣が汎アジア的ドラマ制作に力を注いでいるということを意味する。

最近放映中のものや放映予定である、こうした ‘韓流意図型ドラマ’には、【黄金の花嫁】や【犬と狼の時間】、そして【冬鳥】などが数えられる。またもう放送を終えた【エアシティ】、7月の放映を控えている【完璧な隣人に会う方法】もこの範疇に含まれる。

黄金の花嫁】は、ライタイハン(韓国がベトナム戦争に参戦した際、韓国人男性とベトナム人女性の間に生まれた二世のこと《ウィキペディアより》)である娘ヌエン・ジンジュと韓国人男性とのラブ・ストーリーを素材として、視聴率20%前後の高い人気を享受している。特にヌエン・ジンジュ役のイ・ヨンアは、ベトナム人顔負けのリアルな演技をしていると好評を博している。

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18日放送が開始した【犬と狼の時間】は、三人の男女の運命的なロマンスを扱うにあたり、去る5月に一ヶ月間タイの現地ロケで放送前から話題になった。第1回放映で、タイを舞台にした雄大で壮厳なスケールとアクションが注目された。

最近終映した MBC【エアシティ】も、香港へ行って主人公たちの活躍の姿を盛りこみ、7月下旬の放映を控えた SBSの【完璧な隣人に会う方法】もまた、韓国ドラマでははじめてカンボジアで撮影をして来た。

キム・スヒョンさんの同名小説を原作に、運命の前に立った冬鳥のような女性の生きざまを描き出す【冬鳥】も、初撮影を18日上海(シャンハイ)で始めた。

アジアの各国が私たちのドラマの背景になっているのだ。このように私たちのドラマが、素材と背景をアジアに拡大したことは喜ぶに値する。

まず国内視聴者たちに、多様な見どころを提供することができるという点だ。ドラマの真否性を脱皮するのに背景の変化位可視的なことは珍しい。風変わりな風景だけでも視聴者は一味違うことを感じて、新しい経験をするようになる。

背景の変化は、当然素材の多様化にも通じる。またドラマ制作陣にも豊かな経験を積むことができるという付加効果まで生まれる。

このような傾向は、特に韓流の拡大にも少なからず寄与するように思われる。

韓流スターが出演した韓国ドラマで自国の風景と素材を見られれば、アジア各国の視聴者はさらに親近感を抱くだろう。それは、アメリカドラマにたまに韓国の場面が出た時の我が国の視聴者の反応を考えて見れば、すぐに納得のいくことだ。

何よりこのような試みによって、アジアの文化交流で我が国が中心的な役目を担う基礎になることができるという点に、注目する必要がある。

このような交流と試みは、韓流スターのアジア映画とドラマ出現などをもっと加速化することができるし、韓流の中心舞台であるアジア主要国の文化産業体と提携協力を強化する基礎になる。



また、このようなドラマがもっと多くならなければならない理由も明らかだ。

ジャック・アタリが指摘するように、グローバル化とデジタル化を背景としたノマド(遊牧民)的な生が、21世紀の新しいタイプであるという側面が強いのだから。文化の巨大な流れと混合の中で 、【黄金の花嫁】のヌエン・ジンジュや、【犬と狼の時間】の中の主人公は、もう風変わりではない。

すでにあちこちでよく目にするキャラクターなのだ。

文化が国境を越えて流れゆき、反応しあうという現象は、21世紀において加速するのかもしれません。
 

2007年06月20日

石川 九楊『漢字がつくった東アジア』

近頃はご存知のようにお休みの日もドラマを優先していて、おもしろい本があってもなかなか読み進めることができません^^

この本もまだ読みかけですが、とても刺激的でおもしろいです。



石川さんは書家であり、その実践と蘊蓄をもとに多くの著書をものされていますが、これは「巨視的な観点から歴史をとらえなおす、文字から見た精神の運動史2200年」と説明にあるように、漢字を中心とした東アジア文明史といった趣です。

今回は、そのなかでもベトナム(越南)に関する記述をとりあげたいと思います。

というのも、今月の3日にキム・アジュンさんとパク・チャヌク監督が、韓国ベトナム修交 15周年記念‘'2007ダイナミック・コリア・シネマフェスティバル’に出席して、とくに【美女はつらくて】がベトナムで封切られて、キム・アジュンさんは現地で熱烈な歓迎を受けた、という記事を読んだこともあります。

韓国とベトナムについては、映画【ラブストーリー】のDVDを観たときにふれてあったことくらいしか知りませんでしたが、今回この本を読むことで、両国ばかりでなく中国・日本との‘つながり’を、あらためて感じることができました。

p.180〜181
では、なぜ越南が海岸べりに細長く南方へ延びているのでしょう。じつは、漢字文明圏は、南シナ海、東シナ海、黄海、さらに北へ行けば日本海(東海)と、いってみれば極東の海沿いに広がる文明圏であるからです。

ある意味で異様ともいえる、細長いベルトのような越南の国のかたちを見ていると、越南は漢字・漢語・漢詩・漢文によってつくられた地方であり国であることが明確にわかってきます。越南という国が生まれたのは、インドシナ半島の東岸に民族的なまとまりをもつ人びとがいて越南というひとつの塊が自然発生的に存在したからではありません。そうではなく、大陸側から漢字・漢語の文化と文明が海沿いに南進することによって生まれた国家です。漢字文明を受容した南限が越南ということになります。



したがって、越南というのは、なにも越南族が昔からいたというようなことではなく、漢字文明によって文明・文化的につくられた、ひとつの地方であり国家だといえます。この点が越南の非常に興味深いところであり、民族と国家というものを考える上での示唆に富んでいます。

ここで類推的に考えられる問題は、文明が海の方から広がっていったことです。大きな河川の流域はもとより、山間部に文化がないわけではないのですが、水圧の高い新たな文明が海を経由して広がっていくことがあります。それゆえに、もともとはインドシナ半島の途中までしか広がっていなかった越南が、半島の最南端に向かって海岸沿いにその範囲を広げていきました。

再三繰り返しますが、道としていちばん交通しやすいのは砂漠の道と海の道であり、この二つの道が歴史のなかで果たした役割はじつに絶妙です。越南が南に延びていく姿を見ると、海の道を通って文明が伝わっていったことを示唆していて非常に興味深いのです。

‘海’から考えるという視点が、ここにもはっきりと見て取れます。
 

2007年04月21日

‘散りゆく台湾の中の日本’ ― 平野 久美子『トオサンの桜』

“読むこと”は、ひとの話に静かに耳を傾けることであり、ひとと対話をすることでもある、と改めて感じました。

読売新聞の書評《台湾に残る日本の精神》を読んで手にとりました。


台湾には、国語と定めた中国語よりも、日本統治時代(1895〜1945)に習い覚えた日本語に愛着を覚え、今も自在にあやつる人々が少なくない。

おおざっぱにいえば、1945(昭和20)年までに日本の中等教育以上を受けた76歳から上の台湾人は、ほとんどが日本語を覚えていて、NHKの衛星放送を楽しみ、日本から雑誌や書籍を取り寄せるだけの語学力を持っている。

こうした人々を台湾では、「日本語族」とも「多桑」(トオサン)とも呼んでいる。「多桑」は、日本語の「父さん」の発音に漢字をあてはめた台湾語だ。
(p.8〜9)

台湾を領土にして以来、総督府は「教育勅語」の精神を子供たちに教え、国語教育や修身を通して忠君愛国、勤勉、正直誠実、礼儀などの徳目をたたき込んできた。

黄先生は“皇祖皇宗”など、子供たちになじみのない言葉が並ぶ「教育勅語」とは別に、生活に密着した心の教育に取り組んだ。

一つ 時間ヲ守ルコト
二つ 安静ヲ保ツコト
三つ 姿勢ヲ正スコト
四つ 清潔ト整然ヲ保ツコト
五つ 礼儀ヲ重ンズルコト
六つ 敏速ニ行動スルコト
七つ 仕事ヲ遣リ遂ゲルコト

二ヶ月も経たぬうちに子供たちはがらりと変わった。…

公学校における“桜の教え”は、本島人の教師の努力によって身の丈のものとなり、子供たちの心に染み込んでいったと言える。今も台湾では、時間厳守、勤勉、正直、約束を守る、といった美徳を表現するときに「リップンチェンシン」(台湾語で日本精神のこと)という言葉を使う。

トオサンたちに「日本精神」について具体的に聞いてみると、愛国、正直、時間厳守、整理整頓、犠牲的精神などと理解している様子がアンケートからうかがえる。
(p.134〜136)

現代の多くの日本人よりも、ある意味より“日本人”らしい高齢のトオサンたちの存在に、衝撃に似たものを覚えます。

また台湾と日本とが密接な関係にあったことが、何人ものトオサンたちとのインタビューから伝わってくるので、とても説得力があります。
台湾の近現代史を知ることは、明治時代から日本が歩んできた道のりを検証することにほかならない。歴史にはいくらでも人の手が加わってしまうが、過去の時間の流れは何人(なんぴと)も変えられない。私たちは過去に起きたことを、偽りなく次世代に伝えていかなければならない。人間は時間の連続性の中に生きているのだから。
(p.217)

題名にある「桜」は無論、現実の桜の樹もさしています。トオサンたちにとって、‘桜’がどのような意味を持っているかについては、ぜひお読みになってください。

感動の‘終章’が待っています。
 

2007年04月16日

日韓で多彩なイベント ― 朝鮮通信使400周年記念行事

ひと月ほど前に《ゴールデンウイークは釜山へ!!》を見て、とり上げようと思っていました。


朝鮮通信使往来400周年を記念して、2007年4月15日ソウル昌慶宮で君主から 三使(正使・副使・従事官) 辞令を受けた通信使一行が、ソウル鍾路区仁寺洞の道で行列を再現している。

昌慶宮で朝鮮通信使 三使任命式再現
派遣 400周年を迎え、韓・日両国で多様な文化行事

‘韓流の援助'と呼ばれる朝鮮通信使の日本派遣400周年を記念する、韓・日両国の文化交流行事が、15日ソウルでの三使任命式を始まりに、長期の行事日程に入った。

(社)朝鮮通信使文化事業会は、15日午後2時ソウル昌慶宮明政殿で、正使と副使、従事官が朝鮮国王から国書を受けて、日本の江戸(現東京)に向けた遠くて険難な旅程の一歩を踏み出した朝鮮通信使三使の任命式を再現する行事を行った。

任命式には日本側から河村建夫(6選、元文部科学大臣)衆議院議員を団長にした、朝鮮通信使交流議員会所属の6人の議員が参加し、韓国からは朝鮮通信使国会議員連盟会長であるチョン・ウィワ議員、ホ・ナムシク釜山市長などが参加した。

今年の正使役は、朝鮮通信使国会議員連盟幹事であるパク・ジン議員(ソウル鍾路区)が務めた。

三使任命式が再現された昌慶宮明政殿は、国王が臣下たちの祝賀会を受けたり即位式を行った所で、任命式は宮廷儀礼法式である国朝五礼儀によって、…国王の入場、三使の入場、三使任命、国書伝達、退場の手順でとり行われた。

三使任命式に引き続き、この日午後4時30分から仁寺洞通りで、‘朝鮮通信使のお成り!’というタイトルで朝鮮通信使正使の行列が再現され、プンムルペ(風物隊?)の祝い公演が開かれた。

朝鮮通信使たちが日本に向け海を渡った釜山では、5月4日と5日‘波を越え、新たな道を開く'をテーマに大々的な記念行事がおこなわれる。

4日には朝鮮通信使仲間の無事航海を祈る海神祭が、釜山市東区永嘉台(ヨンガデ)で午後7時原型どおり再現されるのに先立って、午前
10時30分から午後6時まで釜山市役所で朝鮮通信使学会国際学術シンポジウムが開かれる予定だ。

5日には中区龍頭山公園と光復路一帯で、韓・日両国で2千名余が参加する大規模朝鮮通信使行列再現行事が開かれる。

この日の行事には、下関など日本の6都市の祭りと釜山地域16区、軍医代表祭りと文化祭、安東国際仮面舞フェスティバルと忠州ウルック文化祭など国内の主要祭り行列が一緒に参加して、両国の伝統芸術公演も開かれる。

朝鮮通信使行列再現に引き続き 5日午後7時には、東莱府使が日本に発つ通信使らを慰めるために開いた餞別宴が、釜山港を一望に見下ろす中区領主洞コモドホテルで再現される。

日本でも 400周年を迎える朝鮮通信使の意味をいかす多様な行事が開かれる予定だ。

来る 20日東京で‘朝鮮通信使観光展’が開かれ、5月19日には静岡市で‘400年ぶりに再び灯す祭りの燈' 行事が開かれる。

8月4日には対馬の‘アリラン祭り’で通信使行列が再現され、同月 25日には下関市から‘江戸に向けた文化大祭り’が、9月29日には東京で‘江戸入城星辰交隣祭り’がそれぞれ開かれる。

これ以外にも10月7日と8日には彦根市で‘朝鮮通信使が昔通った道祭り’が開かれて、朝鮮通信使の足跡を顧みる行事が用意され、牛窓と下蒲刈などでも朝鮮通信使縁故地行事が開かれる。

朝鮮通信使は、壬辰の乱が終わった後の1607年に467人規模で初めて日本に派遣された後、1811年まで全12回にわたって両国間善隣友好と文化交流の尖兵の役目を担ったが、漢方医学及び薬草栽培技術、音楽、舞踊など朝鮮の先進文物を日本に伝えて、‘韓流の援助’として評価を受けている。

これまたグッドタイミング!現地には行けませんが、これを機に理解を深めたいところです。
 

2007年03月06日

若桑 みどり『クアトロ・ラガッツィ―天正少年使節と世界帝国』

この本はまだ読みかけなので、もう少し読み進めてからご紹介しようと思っていたのですが、今日の《天声人語》(朝日新聞)に取り上げられたので、前倒しします^^

(16世紀の終わりごろ、九州のキリシタン大名が遣わした天正遣欧)使節のひとりで、帰国後に司祭として布教していた中浦ジュリアンも捕まり、長崎に送られた。掘った穴の上に逆さづりにし、信仰を捨てて「転ぶ」合図をすれば助命するという拷問に耐え、ついに息絶える。

中浦を含む、この時代に殉教した日本人188人をローマ法王庁が「福者」とするという。従来、福者は男性の指導的な信徒が主だった。今回は一般信徒がほとんどで、女性や子どもにも多く光が当てられる。

『クアトロ・ラガッツィ――天正少年使節と世界帝国』(集英社)を著して大佛次郎賞を受けた若桑みどりさんは、その中で、4人の悲劇は日本人の悲劇だったと書く。「日本は世界に背を向けて国を閉鎖し、個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由を戦いとった西欧近代世界に致命的な遅れをとったからである」。そして「ジュリアンを閉じ込めた死の穴は、信条の自由の棺(ひつぎ)であった」とも記す。

関連記事としては、《17世紀の日本人殉教者188人が聖人に次ぐ「福者」に 》がありました。
在バチカンの外交筋によると、法王庁列聖省の枢機卿会議はこのほど17世紀前半の日本人188人の殉教者を「福者」とすることを了承した。最終的には4月の復活祭の前後にローマ法王ベネディクト16世が裁可を下し、正式決定すると見られる。カトリックでは福者は聖人に次ぐ尊崇の対象。188人は激烈なキリシタン弾圧が行われた江戸時代初期の全国の殉教者で、一般信徒がほとんど。女性や子供も多い。

リストには、天正遣欧使節の一人として法王グレゴリオ13世に謁見(えっけん)した中浦ジュリアン(1568ごろ〜1633)や、ローマへ渡ってイエズス会の司祭となった後に日本に帰国し、江戸で拷問死したペトロ岐部(1587〜1639)が含まれている。ペトロの生涯は遠藤周作が小説「銃と十字架」で取り上げた。

このあたりについては、若桑さんの本を読んでからですね。


といっても、この本550ページでしかも2段組ですから、読むのが遅いので結構かかりそうです^^;

でも、本の見返しはなんと、オルテリウスの『世界の舞台』なのです!

そして、プロローグは作者のこの本を執筆するにいたった理由が述べられているのですが、なんだか一編の小説を読んでいるような気持ちになりました。ちょっと長いですが、引用しました↓
 
プロローグより(p.10〜12)

2007年02月28日

‘日本という枠組みを超えて’ ― 小島 毅『義経の東アジア』

以前ふれた、《『近代日本の陽明学』》がおもしろかったので、小島毅さんが書かれた別の本を手にとりました。


これまた斬新な記述にあふれ、源平の時代もまた東アジア史のなかに据えることでさまざまなことが見えてくる、まさに目から鱗が落ちる思いです。

義務教育レベルの歴史では、平家は平安時代と鎌倉時代にはさまれた過渡的な存在という印象しかありません。せいぜい清盛が大輪田泊を整備したとか、琵琶法師のとなえる『平家物語』の冒頭を暗唱するくらいでしょう。

それが小島さんの手にかかると、例えばこうした記述になります。(下線は引用者)
平家は国際貿易を頂点とする物流の拡大によって富を蓄積していく。彼らは「珍宝」を蒐集し、それらを上納品や下賜品として政治的に有効に使用することによって、京の公家社会に食い込んでいた。この動きは、京のみならず、各地の人々に広く物質的欲望をかきたてさせ、異国の産物を入手するための交換手段である宋銭を獲得するための生産活動に向けて人々を動員するという、大きな社会変革運動としての性格も帯びていた。

義経が生きていたのは、そういう時代だったのである。
(p.32)

こうしたまとめにいたるまでの説明が実はおもしろく説得力に富むので、↓にちょっと長くなりますが、引用しましたので興味のある方はお読みください。

そして“東アジア”という視点で見直そうとするとき、否が応にも目に入るのは日本と中国・朝鮮の間に横たわる“海”の存在です。遣唐使にしろ、朝鮮通信使にしろ船で海を渡って行き来しました。20世紀にいたるまで、貿易は全て船を使って行われたということは、陸だけでなく海の歴史を考えないわけにはいかないことになります。ただ…

古文書にしろ考古学的遺物にしろ、それらが残るのは陸地である。(海底の発掘作業をおこなえるだけのゆとりは、日本の水中考古学にはまだない。)史料万能主義に立つかぎり、海の交易はなかなか語られる機会がない。網野善彦氏らの努力で、この二三十年、ようやく状況がかわり、成果があがりはじめたというところだろうか。
(p.151)

おおっ、網野善彦さんのお名前が!中沢新一さんの『僕の叔父さん 網野善彦』を読んだ程度ですが、陸の背景としての海ではなく、海をも表舞台とした東アジア全体を見渡す、巨視的な目というものがいまこそ求められているのかもしれません。
 
小島 毅『義経の東アジア』p.24〜26より

2007年02月23日

秀吉の野望と『世界の舞台』

以前にもとりあげた『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』のなかで、松岡 正剛さんは次のように書かれていました。

秀吉の大陸制覇の野望はとんでもないものでした。

甥の関白秀次に渡した二十五力条の朱印状(命令書)を見ると、日本・朝鮮・中国にまたがる破天荒な「国割り」のプランが示されています。まずは、後陽成天皇を北京に移す。ついで大唐の関白には秀次を就任させる。一方、日本の帝位は若宮(良仁親王)か八条宮(智仁親王)に継いでもらい、その関白職に羽柴秀保(秀次の弟)か宇喜多秀家を就かせようというのです。朝鮮は羽柴秀勝あたりに統治させ、国内では中国・朝鮮に近い九州を強化して、そこを小早川秀秋に任せる。秀吉自身は家族とともに寧波に居住するという予定まで書きこまれていました。

この箇所を読んだ時、なにが秀吉にこんな大それた事をそもそも思い描かせたのだろうと思いました。

そのときふと思いついたことがありました。そう以前にこのブログでもとりあげた《世界の舞台》です。そこでは簡単にしか触れていなかったので、ふたたび『図説 世界古地図コレクション』から ―

16世紀後半にわが国へ伝わった世界地図で、現存するものはない。ただ資料の上では、オルテリウス『世界の舞台』が日本に来たことが明らかになっている。それは天正遣欧使節の土産物の一つとして現地で手渡されたという記録と、さらにそれが日本で見られたという記録である。

天正遣欧使節一行がヴェネチアから北イタリア諸都市を訪問中にパドヴァにてプレゼントされたことを、千々石(ちぢわ)ミゲルが次のように語っている。

「…この方もわれわれに一方ならぬ好意を示されたが、特に感銘の深かったのは四冊続きの立派な書物をわれわれに贈られたことであって、その第一冊にはアブラハム・オルテーリウスによって編纂された、「世界輿地図(よちず)」(『世界の舞台』)がおさめられ、残りの三冊には巧妙をきわめた技術で描いて印刷に付された世界の最も有名な町々の図がはいっている(『世界都市図帳』)。…」
(泉井久之助他共訳『デ・サンデ天正遣欧使節記』対話29、1585年7月)


そして、日本にそれを持ち帰ったことも、史料に記されている。

「青年等はパドヴァに於いて同大学の有名なる教授より贈られたアブラハム・オルテリュスの地図、並びに海岸、島嶼(とうしょ)を記したる航海図を有したり、」
(ダニエル・バルトリ編耶蘇会史(やそかいし) 京都ヘノ旅『大日本史料』第11編別巻2)

これは使節が帰国後に、豊臣秀吉のいる京都へ向かうため、播磨(はりま)の室津(むろつ)で停泊していたときの記録で、1591年のことである。『世界の舞台』が日本へ来たことは確実であり、人目にもふれた。

と、いうことは“秀吉の目にもふれた”はずです。

このことに関する本をもう少し読まなければ何とも言えませんが、“大航海時代”をへてポルトガル人やイエズス会宣教師達がやって来た時代の空気が、信長や秀吉の野望に反映していたに違いないという気がします。



2007年01月18日

アップ・サイド・ダウン ― 朝鮮通信使のたどった道

朝鮮通信使に関する本を見ていたら、↓のような地図が掲載されていて、思わず見入ってしまいました。

mapUpSideDownWide.gif


ソウルから江戸を目指す朝鮮通信使の立場で考えてみると、確かにこのような地図のほうがイメージしやすいのかもしれません。

mapUpSideDown.gif


以前なにかで、オーストラリアでは普段ぼくらが目にするものとは上下反対の地図も使われているということを読みましたが、その時は“南半球”という視点を教えられたようで新鮮でした。

地図は、どこに視点を置くかによっていろいろなものがあり、実用を考えるならむしろ当然といえるのかもしれませんが、“さかさまの日本”はおもしろいです。

『海游録』の「解説」部分にも記されている、1719年の“往路”の「路程および日程」も、上記のような地図でたどってみるとまた違った趣があります^^

4月11日 ソウル出発
6月20日 釜山出発
6月20日 佐須浦(佐須奈)
6月23日 豊浦(豊)
6月24日 西泊浦(西泊)
6月25日 金浦(琴)
6月26日 船頭港(小船越)
6月27日 対馬府中(厳原)
7月19日 壱岐・風本浦(勝本)
8月01日 藍島(相ノ島)
8月10日 地島(地ノ島)
8月18日 赤間関(下関)
8月24日 三田尻西津(防府市三田尻港)
8月25日 竈関(上関)
8月27日 鎌刈(下蒲刈)
8月28日 韜浦(鞆浦)
9月01日 牛窓
9月02日 室津
9月03日 兵庫(神戸)
9月04日 浪華江河口
9月04日 大阪
9月10日 平方(枚方)
9月11日 京都
9月12日 大津
9月13日 守山
9月14日 佐和(彦根)
9月15日 大垣
9月16日 名護屋(名古屋)
9月17日 岡崎
9月18日 吉田(豊橋)
9月19日 浜松
9月20日 掛川
9月21日 藤枝
9月22日 駿河府中(静岡)
9月23日 三島
9月24日 箱根嶺を越えて小田原
9月25日 藤沢
9月26日 品川
9月27日 江戸(東京)〜10月15日

それにしても出発してから江戸に到着するまで、半年近くもかかったとは!
まさに一大事業だったということがよくわかります。
 

2007年01月15日

はじめての“東洋文庫” ― 申 維翰『海游録―朝鮮通信使の日本紀行』

その評価の高いことは耳にしていたものの、実際に手にしたのは今回がはじめてです ― 平凡社の東洋文庫


“文庫”でありながら、2,730円というのは高いという印象を持たれると思いますが、最近の書籍ではなかなかお目にかかれないしっかりとした造り、上記の書影は“箱”のほうなので、わかりにくいのですが、なんと

箱入り布クロス金箔押し角背!

本をもつ歓びを感じさせてくれること間違いなしです^^

さて、巻末の訳者の姜 在彦(カン・ジェオン)さんの「解説」より ―
1719年(享保4年)にも、徳川吉宗の将軍職襲位を賀して、朝鮮政府から洪致中を正使、黄濬を副使、李明彦を従事官(以上を三使臣という)とする通信使一行475名が訪日している。『海游録』は、この年に、製述官として通信使一行に随行した申維翰の日本紀行文である。

李朝時代における朝鮮政府にとって、正式に国交を開き、使節が往来した国として、中国(明、清)と日本がある。両国に往来した使節たちは、それぞれの国について数多くの紀行文を残しているが、日本紀行文の主要なものは『海行総載』四冊に収録されている。そのなかでも『海游録』は、「『海行総載』に収録されている数多くの日本紀行文を圧倒し、中国紀行文の白眉といわれる朴燕厳の『熱河日記』とともに、

紀行文学の双璧

といってよく、文章の微妙なること、観察の細微なることにおいて、まさに『熱河日記』と拮抗するだろう」という指摘は、まことに当をえたものといってよい。
(一部漢字を変えました)

どこまで読み進められるかわかりませんが、この『海游録』からはじめたいと思っています。
 

葛飾北斎と朝鮮通信使

「日韓共通歴史教材」という副題の通り、歴史教育の場で使用することを目的に日本と韓国の教師が苦心の末に作った教材なので、格好の入門書ともなっています。



たくさんの図版が収められていて眺めるだけでも楽しいのですが、そのなかに葛飾北斎の2枚の絵がとり上げられています。

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北斎の描いたこの通信使が何回目のものなのかちょっと気になって調べてみました。

北斎が生まれたのは 1760(宝暦10)年のことであり、90年におよぶ生涯を 1849(嘉永2)年に閉じています。

その間の通信使といえば、1764(明和元)年の徳川家治の襲位を祝して派遣された第11回使節団と、1811(文化8)年の徳川家斉の時の第12回使節団ということになりますが、年齢からいって第12回のものと考えたくなります。

しかし、この最後の12回目の使節団は“対馬”どまり、すなわち江戸まで来ていないのです!その間の事情を、上記の本では次のように説明しています。
1787年、11代将軍徳川家斉が就任したので、対馬藩は朝鮮通信使招聘(大切なお客として招くこと)について幕府に伺いを出しました。幕府の支配力を強めるためにさまざまな改革を実施(寛政の改革)していた老中松平定信は、財政が苦しいことと、飢饉(天明の大飢饉、1783年〜87年)や打ちこわしなど国内の混乱するようすを通信使一行に見せたくなかったので、朝鮮通信使の招聘を無期延期としました。

その後、将軍就任から24年もたって、家斉の就任を祝う通信使の招聘が決まりました(第12回朝鮮通信使=1811年)。しかしこの時の通信使の応接は前述の理由で、江戸ではなく、対馬でおこなわれました(易地聘礼・えきちへいれい)。

つまり、この時の通信使一行は、北斎の描いた“原”にも“由井”に行ってないことになります。

これはちょっとした発見かも…と思ったのもつかの間、そのことを指摘している記事がありました^^
北斎は、通信使を実際には見ていない。一八一一年の最後の通信使から二十年後、唐風で着飾った琉球使節が江戸入りした。これに刺激され、北斎は通信使を描いた。このことからも当時、通信使が日本社会に及ぼした影響の大きさがうかがえる。

琉球使節ではなく、朝鮮通信使を描いたというのもおもしろいですが、北斎の眼には実際に目にしていないだけに、かえってその姿が鮮やかに映っていたのかもしれません。
 

2007年01月14日

新カテゴリー《朝鮮通信使》をつくりました

2006年12月03日の朝日に掲載された柄谷行人さんの書評を読んでから、「朝鮮通信使」に関心を持ち始めました。

愚かしい反復を免れるために


東アジアには、中国を中心にする冊封体制という「華夷秩序」が存在した。その中で、日本と朝鮮は、中国との関係において同格の位置にあった。それを覆したのが、豊臣秀吉の朝鮮侵略である。むろん、それは失敗しただけでなく、国内でも没落する結果に終わった。しかし、豊臣側から権力を奪った徳川家康は以後、甚大な被害を与えた朝鮮との関係を修復せねばならなかった。それは、中国との貿易を再開するために、つまり日本が東アジアの政治・経済システムに復帰するために、不可欠だったのである。

徳川側の「反省」はあいまいなものであったが、李朝側はそれを受け入れた。東アジアの秩序の再建と平和を優先したのだ。その結果、朝鮮側から「通信使」を送るという慣例が成立した。これはたんに外交儀礼の問題ではなかった。十二度にわたり、毎回五百人に及ぶ、朝鮮の一流の学者、医者、芸術家などが来日したからである。日本側も同じレベルの人たちが関与した。したがって、江戸日本の儒学、医学、文学、美術その他を考えるには、朝鮮通信使の研究が不可欠である。本書はそれを多様な観点から示している。

残念ながらその段階では、上記の本は図書館になかったのでまだ読んでいないのですが、「朝鮮通信使」に関する本は何冊か出ていたのでさっそく借りてみました。

例によって拾い読みですが、知れば知るほどに関心は深まるいっぽうです。まずは、講談社学術文庫にも入っている李 進煕『江戸時代の朝鮮通信使』「まえがき」から ―
江戸時代とその文化について見直す気運が高まっているが、「鎖国の世」だという印象はまだ拭い去られていないようである。だが、徳川幕府が「鎖国」の対象としたのはキリスト教のヨーロッパ諸国と清国であって、朝鮮国とは正式な国交を結んでいたのである。

釜山(プサン)の草梁(チョリャン)倭館には五、六百人の日本人が常駐し、年間を通じて五十隻を越える日本の貿易船が出入りしていた。外交実務を担当したのは釜山の東莱(トンネ)府使と対馬(つしま)藩主で、常時連絡をとりあい、両国で起きた大きな事件や災害、将軍家や李王家の吉凶、諸外国の動静についての情報をそのつど交換した。

両国の善隣関係を象徴するのが徳川幕府の代がわりに来日する朝鮮通信使であった。それは「信(よしみ)を通わす」使節の意味で十二回にのぼり、正使・副使・従事官の三使と第一級の学者・医者・画家が加わる総勢五百人の大使節団である。

六隻の船に分譲した一行は各港に立ち寄りながら大坂(現在の大阪)に入り、その先は幕府の用意した川御座船で淀川をさかのぼる。淀に上陸してからは、京都・名古屋をへて江戸へ向かう。護行する対馬藩士が八百人、一行は輿(こし)や駕籠(かご)・馬を連ね、三千人の大行列となる。

不勉強のせいか、これらのことを学校で習った記憶がありませんが、12回も!しかも1回あたり500人もの規模で!

詳細について、少しずつ探っていきたいと思っています。
 

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